どうも、最近寒すぎてモバイル暖炉を買おうか迷っているようすけです。
なんかコンロで使う市販のガスボンベで動くみたいです。
少し前にじぶんで、今やってることだったり、やろうとしてることだったりの意味を考えたときがありました。
なんでじぶんはこんな無駄なことをしてるんだろうっていう気持ちと折り合いをつけるためにこじつけた意味をご紹介したいと思います。
ちなみにそんな前のじぶんの考えじゃないのに、今はまた別の考えを持ってます。
それではいってみましょう!
出会いは伏線でしかない
これ、意味あるのかな。
って思うことって結構ある気がする。
この人に親切にして、意味あるのかな。
今目の前で転んだおばあちゃんに駆け寄って手を貸すことって、ただのエゴでしかなくて、結局「わたし」がいなければ、おばあちゃんは一人で立ち上がる。
結局じぶんががんばらなくても、世界は勝手に回っていく。
会社に入って、一年しか経っていないけど、こんなこと続けてて意味あんのかなって思う。
上司はどこを見てるのかわからない目をして、いずれわかる、とか、点と点が繋がるときがくる、とか言ってくるけれど、わかりたいのは何十年後のことじゃなくて、今なんだよなあ。
下積みは辛い、とか、大事なのはじぶんの生き方を曲げないこと、とか、それっぽい言葉を並べてきて、説得してるつもりなのかもしれないけれど。
ぼくたちは過去を生きてるわけでも、未来を生きてるわけでもなく、今を生きているんだ。
だから、今しんどいから、どうにかしてほしいんだよ。
そう思っていた。
ぼくは昔から、物語が好きだった。
散りばめられた伏線が、時に荒々しく、時に丁寧に回収されて、結末を迎える。
冒頭のこの出会いは、こんな意味を持っていたのか、とか、中盤でのあいつの行動って、ここで生きてくるんだ、とか。
物語だから当然なのかもしれないけれど、意味のない描写なんてない。そこには必ず作者の意図があって、だからそれを先読みした気になって、展開に裏切られるのが、とても楽しかった。
それと比べると、じぶんの人生は、無駄だらけに思えた。
意味のないことばかりで、何やっているんだろうってむなしくなって、すべてがどうでもよくなる。
そう、思っていた。
新しく人と会うのって、気を遣うからちょっとだけ疲れるし、新しいことを始めるのも、心地よくはない。
失敗したくないし、嫌われたくないし、だったら、行動することをやめてしまえば、よっぽど楽に思われた。
ぜんぶやめたいなあと思った。
おばあちゃんに親切にして偽善者と思われるのも嫌だし、断られたら恥ずかしいし、よくわからない仕事して意味あるのかもわからなくて、ぜんぶぜんぶやめたいなあと思った。
やめてもよいのだと、思う。
つらいならぜんぶ、やめてしまってよい。
甘えだとか、ゆとりだとか、言いたいやつは、何をしていても言ってくる。
何をやめても言ってくる。
ただ、そういえば、ぼくは物語が好きだったなあ。
物語が好きじゃない人なんて、いないのではないかなあと思った。
そう思ったら、
これ、意味あるのかな
って思うことも、意味がある気がしてきた。
おばあちゃんに手を貸すことも、働くことも、行動してる。
行動してるから、そこには物語がある。
今まで行動してきたことがすべて物語になっていると、そう感じる。
一言、二言しか会話しなかったような人たち。
今後、仲良くなって、ゆっくり話すことはないだろうと思っていた人たち。
そんな人たちと、一言、二言会話したおかげで、今、一緒にいて、テーブルを囲んでご飯を食べているのが、とても不思議で、幸せだなあと思った。
ひざかっくんをされたことも
授業のプリントを預けたことも
ライブに行ったことも
かいけつゾロリのカードゲームをしたことも
取材飲みをしたことも
本屋にいったことも
ぜんぶ、みんな、伏線だったんだなあと思う。
だから、意味ないことなんてないのかもなあって思った。
人と関わることをやめないで、よかったなあと思う。
これからも伏線を張り続けて、もっともっと、大事な人のことを大事に思えたり、そんな人を増やしたりできたらなあと。
そう、思っている。
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