これはあの子との、別れの物語

 

「みつけてくれて、ありがとう」

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1

これはあの子との、別れの物語

 

 あの子は窓から外を眺めていた。笑っている。透明なガラスに雫がぱたぱたと当たり、一筋の線となって垂れる。

 不安や、嫌悪や、嫉妬、それに◯◯。会ってしまう。そのたびにごちゃまぜになった洗濯機の中の洋服みたいな感情があふれて、どうしようもなく苦しくて、自分自身に嫌悪までして。どうしてあの子はあの子なのだろう。どうして私は私なのだろう。いくどとなく考えた。胸が痛くなって、鼻がつんとして、視界がぼやけて。胃の中に溜まった気持ちの悪いものを吐き出したくなる。

 車内は空いているわけではなかったが、立っている人はほとんど見当たらなかった。車両と車両の連結部分のすぐ横、優先席に私は一人座っている。車両間のドアは開いていて右をみるとすぐあの子が視界に入る。

 雨は電車に乗っている間に強まってきたようで、いよいよ本降りになった。お尻を伝って響く低い車輪を回る音に慣れて、水滴が地面を叩く音がかすかにきこえる。

 リュックを背負ったまま立つあの子はいつもの傘を手に持っていた。白をまったく寄せ付けないきれいな黒い髪は肩の下まで伸びている。

  扉が開くとあの子は少し端によった。停滞していた空気が弾かれたように飛び出し、足音やベルの音、そして雨の匂いが車内を駆けた。

 扉が閉まる。あの子は再び窓へと顔を近づける。あごをあげて、花を愛でる乙女のように空をみる。

 私はそれを見ている。目が離せないでいた。

 

 窓に反射した自分の顔と、止まる外の景色。扉越しに目の前にあるベンチには誰も座っていない。

 扉は今まで以上に重々しく開いた。右足を踏み出し、ホームに降りると、私はカバンの脇につけたパスケースへと手を伸ばし、歩き出す。

 あの子が視界に入らないよう足早に抜けようとしたけれど、たくさんの人で混みあった改札前は、思うように進めない。容赦なしにぶつかってくるスーツ姿のおじさんたちを睨む私の後ろで、あの子は懸命に人をよけて、ぶつかってこられては謝り、優しい顔で頭を下げ、感謝の言葉を述べていた。でもみんな、そんな彼女を無視する。

「あ、お弁当」

思わず呟いたのは無事改札を抜けた直後だった。あの子の姿はもう見えない。ひまわり色の傘は目立つからすぐ見つけられるだろうけれど、私の身長では遠くまでは見渡せない。

白いレースをあしらったお気に入りの傘を差して、いくつかの水溜りを慎重に避けて歩いた。

学校に着くまでの唯一のコンビニを目の前にして、私はしばらく立ち止まる。

四段だけのちょっとした階段をのぼり、自動ドアの前に立った。

扉があいて、ありがとうございましたーという声を背中に受けて私はスロープを下る。少し乾き始めた傘を再び開いて、学校へと向かう。

信号が青になるのを待ちながら、 十五分もコンビニにいる必要はなかったのかもしれないと思った。

まるで鳥の鳴き声のような音が響いて、私は歩き出す。横断歩道を渡りきると上り坂が待っている。

あの子は坂の上に立っていた。

 私は眩しいはずなんてないのに、彼女に向かって手を突き出し、目元に影をおく。滴の落ちてはじける音。雨は依然降り続き、空には曇天がかかっている。

 あの子は傘を差していなかった。いや、差す傘を持っていなかった。電車に乗っていたときには、たしかに持っていたひまわり色の傘。彼女にお似合いのその傘は、荒野に咲く気高く美しい、一輪の花だった。

 私は心なし歩調を速めて彼女へと近づく。そんなつもりはないのに、足が勝手に向かっていく。そっちに行くなという心の声は無視され、心臓のノックの音も聞こえないふり。

 水たまりを踏んだ。ローファーの中に冷たいのが入ってきて靴下が濡れる。歩くたびに足下で鳴く。ぽちゅんぽちゅん。ぽちゅんぽちゅん。坂を上る私。下る水。音はとどまり、宙で鳴き続ける。雲は泣いている。あの子は笑っている。

 長い髪。遠くから見ると黒に見えるけれど、この距離ではうっすらと茶色がかっているのがみてとれた。

 傘は地面に落ちていた。あごから滴をしたたらせて、あの子は幸せそうに傘を見ている。

「何、してるの」

 なんて、幸福な顔をしているのだろうか。と私は思った。

 彼女の隣に立って、私の傘の中に入れる。すると彼女は眩しい笑みを浮かべて私を見て。

「あー、愛理さん。どうしたんですか?」

「風邪ひくよ。傘ささないの」

 私がひまわり色の傘を一瞥すると彼女はしゃがみ、傘を胸に抱くようにして持ち上げる。コンクリートの塀と地面の境目に、草が生えていた。私はそれを見て、あの子をみる。

「見つけてくれて、ありがとうございます」

 えへへと笑う彼女の言った意味がわからず、思わず眉をあげる。

「近づいてください、とても綺麗なんです」

 手招きするあの子の隣に、同じようにしゃがむ。

 白い花。四枚の花弁。名前は、わからなかった。雑草だ、と私は思った。コンクリートから生えてくるものはたとえ大根であろうと、雑草のように思えた。

「すごくないですか。こんな場所にもお花は咲くんですね」

 あの子の声は弾んでいる。

「こんなところにひとりぼっちで、かわいそう」

 わたしの声は沈んでいる。

「……今はまだ一人でも、きっと家族は増えますよ。この子、太陽に愛されているんだと思います。だから、こんなきれいに咲いたんです。数十年後にはここらへん一帯がまるで星空みたいに輝く花の絨毯になるかもしれませんよ、素敵です」

「で、どうしてその花に傘を差しているの」

「雨に打たれて、辛そうだったから」

「え?」

「ほへ?」

彼女と目があった。そのアホっぽい表情が、少しムカついた。

「あんた花には水が必要って知ってる?」

「えー」

「それに雨ごときでダメになっちゃっているのなら、今頃この花の影も形もないでしょ。傘、もってかえんな」

「ええー」

しゃがんで、傘の柄の部分を持って立ち上がる。あの子のほっぺたには髪がはりついていて、目にもかかっていた。笑うと顔が揺れて、雫がゼリーのように震えて弾ける。紺色のセーターは真っ黒になっていて、少し見える白いワイシャツも肌の色が透けて見えた。

 ずぶぬれになる必要はなかったんじゃないと私が言うと、あの子は「でも雨の中を歩くのも楽しいよー」と言った。教科書とかが濡れちゃわないときくと「だいじょうぶー。ああでも本が濡れるのは困るなあ」と言って、舌をちろっと出した。

学校までの道は水溜りも多くちょっとした坂もあったけれど、そもそも最初から濡れるのを気にしていないあの子は、子どもが川を渡るときの無鉄砲さそのままに歩く。私も最初は気にしていたけれど、もう靴下も濡れてしまったことだしと、途中から考えなくなった。

「どうしたんですか?」

立ち止まった私を、傘を後ろに傾かせ、かがんで不思議そうにみるあの子。

私の視界の先には、公園があった。錆びた二つのブランコと、滑り台と、ベンチ。

なんとなく、寂しさを覚えた。それは雨のせいであったかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。だがなんにしろ、この気持ちを伝えるのは無理なことだと思った。言葉うんぬんというよりも、あの子が理解できない感情なのだと私は決めつける。あの子はきっと、こんな気持ちを抱かない。

 

 

2

「愛理さん、ありがとー。おかげで助かりました」

 と濡れた髪を頬にへばりつかせながら言った。とても嬉しそうな顔をしてるあの子から私は顔をそらす。

玄関には私たち以外見当たらなかった。上履きを取り出して履き替えながら、私は傘をロッカーにしまう。

あらためて彼女をみると、その濡れ鼠の姿と少し口角の上がっている顔とが合ってないように思われて、私はおかしな気分に包まれた。おかしくて、可笑しくてたまらない。

「あんた、アホだよね」

「ええー」

 とたんに悲しげに瞳をうるませるあの子を見ていたら、笑いたくなんてないのに、笑い声をあげてしまった。

「ええー、笑うのって失礼ですよぉ」

 そう言うのだけれど、とたんにぷっと吹き出し、あの子は笑い始めた。

「どうして笑うのよ。私あんたのことを笑ってるんだけど」

「だって、愛理ちゃん楽しそうに笑うんだもん。私もなんだか楽しくなっちゃった」

 ぴちょんぴちょんと、床に滴る青い雫の音。私たちのひまわり色の笑い声。遠くに聞こえる、白い雨の音。

「体育着、持ってる?」

「持ってないです」

「部活着でよければ貸そっか」

「いいの? 愛理ちゃん優しい。あーでも、愛理ちゃん部活にいけなくなっちゃわない?」

「いいのいいの、あんたが着たのをそのまま着るから」

「汗かいたら困るよね?」

「気にしない」

「私が気にするよー」

全然気にしていなさそうな声音で彼女は言った。どこかでロッカーを乱暴に閉める音と、慌てた足音がきこえて、私はスカートのポケットから携帯を取り出す。八時二十九分。

「ほら、タオル」

「わ、ありがとう」

 小走りで階段をのぼっていると、つまずいて床に手をついた。

「お前……、びしょ濡れじゃないか。傘を差してこなかったのか?」

二階の踊り場から呆れたように私たちをみる先生。それを私たちは見上げて。

「……すみません、着替えに行っていいですか?」

 と言った。

  

「愛理ちゃんまで来る必要なくないですか?」

「私も靴下かえたいから。教室だとほら、……パンツ見える」

「なるほどー」

 更衣室の入り口には青色の上履きが並んでいる。先輩よりはましか、と思いつつも少し躊躇ってから、上履きを脱いで入った。

更衣室の中は一時間目ということもあってか、ほのかにデオドラントと香水の匂いがするだけで不快感はなかった。これが時間の経つにつれむせ返るような甘い匂いが漂うようになると、私はこの場にいられなくなる。無理だった。体育の授業終わりにはすぐ着替えるか、それが出来なければトイレで着替えた。

 私たちは下着姿の一年生の間を縫って歩く。みな顔はあどけなく、たった一年しか違わないということが嘘みたいに思えた。空気がもう、違う。

だからなのか、少しばかりの視線を感じた。私は居心地の悪さを感じて、肩をすぼめて歩く。

更衣室の一番奥にはロッカーじゃなくて、正方形の大きな棚がある。私たちはその棚の前にカバンを置いた。

「あんた、雨好きだよね」

天井近くにある小さくて横に細長い窓からは雨がよく見えて、あの子は大好物のお菓子を見る子どものように口をあけながら外へと目を向けている。

 私の質問にあの子は首をかしげる。何を問われているのかが理解できないでいるのかもしれなかった。彼女には、好きという概念が存在しない。ふと、そんなことを考えた。

静寂に耳をすませてやっときこえる雨の音は、なんだかとても優しいものな気がした。

「音が、面白くないですか?」

「音?」

 あの子はリボンを棚におくと、セーターを脱ぐ。彼女がきれいに畳んだのを、私は棚の上に広げた。放課後までには乾くだろうか。

「ぷつぷつって音です。傘を差していると音のシャワーを浴びているみたいなんです」

「音のシャワー、ね」

 お昼頃にとか、雨が降り出すことがある。朝にはほとんど雲の姿なんて見えなかったのに気づけば、しれっと空は雲で覆われていた。そんなとき、みんなはたいてい文句をいう。天気予報に対する文句だったり、雨雲に対する文句だったり。けれどあの子は違った。もう一年も前のことだけれど、今でもはっきりと覚えている。窓から外を眺めては、あの子は笑うのだ。冷たい雨の滴と灰色の空との絵を眺め、あの子は太陽の光を浴びた猫のように目を細め幸せそうに笑う。

 けれどそれは、雨に限った話ではなかった。あの子は誰がみても特異で、特別で。だから去年は。

 それをいじめと呼ぶのは過剰だった。私たちはそれをいじめとは呼ばないし、かといって他にうまい言葉があるわけでもない。私はそのいじめではない何かを、惨めと呼んだ。惨めな扱いをする惨めな人たちを見ているだけの私はほんと惨め。

 彼らの行為に意識的な部分があったのかは、わからない。きっと本人たちもわからないのだろうし、だったらそれはもう無意識的と呼んでよかったのかもしれない。

 一年生の五月。現代文の時間にあの子が「……かにクリームコロッケ」と口走ったことが、そもそもの発端だった。黒板に文字をつづる先生の背中。その背中の前で、教室は爆発した笑いに包まれた。前から二番目の席に座っていたあの子の独り言が、やけに教室中に響いたのをおぼえている。自分がどこに座っているのかは思い出せない。まるで映画の一場面みたいにあの瞬間は切り取られ、私の頭の中で何度も再生されているけれど、それが本物なのかさえ定かではなかった。

 私はどこが可笑しかったのかはわからなかった。けれど教室という空間には不思議な流れみたいなものがあって、きっとあの子の言葉は運悪くその流れにさらわれたのだろう。そのときから、あの子は不思議ちゃんとして教室の流れの一部にされるようになった。男子たちは単純に面白がった。女子たちはもっと複雑だ。どう複雑なのかを言葉にすることはとても難しいけれど、あえて当てはめるのならば、距離感が、となるのかもしれない。ふつうだったらわかるはずであるクラスメイト間の雰囲気、近さ。彼女はそれを無視する。いや、彼女は無視というよりも、無知なのだろう。だから女子の中では、疎まれた。だから、ああいったキャラ付けは、願ったり叶ったりだった。誰が願ったのかと言えば、それは私たちの教室という空間に他ならない。

 ここにきてあの子のポジションはみんなのもの、ということになった。みんなで楽しくいじりましょう。いじめじゃないよ惨めだよ。

「晴れと雨、どっちが好き?」

 赤の部活ジャージの上着を羽織って、黒の短パンから白い足をのぞかせる。なぜかストレッチを始めたあの子を眺めながら私は履いた靴下を膝の上まで引き上げた。

「すごーい、動きやすい!」

 ぴょんぴょんその場で跳び始める。

「ねえ、きいてんの」

「あ、ごめんなさい、何でしたっけ」

「晴れと雨」

「はい」

「どっちが好きかって」

「そーですね。どっちも!」

「あんた、両親にパパとママどっちが好き?ってきかれて困らない子なのね」

「そーいう愛理さんは悩んだ末におばあちゃんとか言いそうですねー」

 私が何か言い返そうとすると、あの子は私の手を引いて歩き出した。「愛理ちゃん一時間目遅れるよ、急がないと」

「ちょっと待って、靴下」

「私のと一緒に乾かしとこうよ」

 あの子の力は全然強くなかったけれど、私はなぜだか逆らえなくてなすがままに引かれていった。更衣室を出る直前、後ろを振り向くと棚の上に並べた制服と靴下が目に入って、それはまるで人が着ていた服だけを残して忽然と消えてしまったあとのように見えた。

 

 

3

 あの子のいないこの教室では、雨は澱んでいて暗かった。混じり合った青と緑と赤と、黒。あの子の前ではどんな色だったっけ。私は窓をみるけれど思い出せない。こんな色じゃなかったのだけは、覚えているのに。先生の歌。ペンがノートを走る。チョークの粉。たくさんの人の気配と、湿った空気の匂い。椅子が歩いた。重たげに足を引きずって。数字は世界を表す。現す? きっと正解は前者だけれど、私は後者が好きだ。数字は世界を現す。数字によって、見えざる世界が現れる。

 数字っていうのはきっと一つの眼鏡で、世界を覗くための道具なのだろう。私たちは眼鏡なしでは何も見えないから、誰もが何らかしらの眼鏡をかけて、世界を見なければいけない。眼鏡をかけなければ見えないけれど、眼鏡は眼鏡であるから、そこには歪みが必ずあって、よく見える部分や見えない部分、大きく見えるところや小さく見えるところがある。世界そのものはただそこに在るだけなんだけれど、つける眼鏡によってどうとでもなるのだ。みんな、自分にあった眼鏡を探したり、勝手に人につけられたり。でも、悪い眼鏡だってある。世界がとてもみにくい。その点で、数字というのは正確な、いい眼鏡だ。たくさんの物が、ありのままの姿で映るだろう。けれど人だけは、まったく見えないに違いない。

 あの子のつけている眼鏡は何だろう、と幾度も考えた。答えはいつも決まっているのに、私は今日も考えた。

 レンズの代わりに、おっきなビー玉。フチなんてない、だって世界ぜんぶをみたいから。どんな景色もきらきらに輝いていて、曇り一つないのだ。きっとあの子の目には世界はとても優しく幸せに満ちあふれた場所に映っているのだろう。私なんて想像もできないくらいに綺麗で素敵な場所に違いない。

 あの子がされた惨めは、本当に些細なことだった。授業中に消しゴムのカスを頭に投げつけられた、とか。あの子が転ぶようにわざと物をおいといた、とか。それらは執拗に何度も、といった風ではなく、一回だけやってあの子の反応を見てはクラス中で笑った。日が経ち、もうそういうのをやらなくなったのかと思い出したころに、再びそれは起こる。唐辛子を練り込んだクッキーを、「作ってみたの、よかったら食べて」とくすくす笑いで渡す。あの子は何の疑いもせずにそれを食べて、涙目でせき込んで、お茶を飲んでみんなが笑ってあの子も笑った。クッキーを作った子は男子や女子に関わらずそれを渡して、皆おもしろ半分に食べていた。だから、いじめではなかった。たとえ一番最初に何もわからずに食べさせられたのがあの子だったとしても、みんながその反応を興味津々にみていたとしても。彼らはただ遊んでいただけだ。虐げるつもりなんてなかったし、あの子だって虐げられているとは思っていなかったから、それはいじめではないのだ。あの子はいつも笑った。心の底から笑ったし、みる者を安心させるような本物の笑顔だった。だから誰も、罪悪を感じなかった。

 私はそんなあの子を見てて、言いようのない不安を感じた。

 遊ばれているのは明白で、どうして「やめて」と言えないのか。私はいくじのないあの子をみて嫌悪をおぼえた。

 あんなことをされて平気だと思えるあの子に、嫉妬した。

 幸せそうな顔をしたあの子をみると、知らず幸福な気持ちになった。

 それらの感情は混じり、溶け合い、灰色になる。今日みたいな空と、同じ色だった。

 やまなければいい。

 雨の日は筋トレだった。

 更衣室の前であの子に会った。リュックをしょって、手には折り畳まれた赤いジャージと黒い靴下。

「わ、愛理さん」

 あの子は嬉しそうに笑った。

「あんたどこに行くのよ」

「愛理さんに服、返そうと思って」

あと、靴下も持ってきましたよ。

「更衣室で待っていればいいのに」「そうですね、でも会えました」あの子は笑う。「これ、本当にありがとうございました」

 差し出されたジャージを取らず、私はあの子のセーターの中にお腹側から手を入れる。「ひゃあっ」とあの子が声を漏らしたが気にせずまさぐった。

「な、何するんですか!」

 セーターの裾を引き下げ顔を真っ赤にするあの子をみて、そんな表情ができるのかと私は驚いていた。「…す、すみません。通ってもいいですか」という声がした。声のきこえた方へと顔を向けると二人の一年生がスクールバッグを肩にかけて私たちをみている。その目は訝しげで、少し怯えているようにもみえた。

「ごめんなさい、邪魔でしたね」

 ほら、愛理さん。とあの子は言って私の腕を引っ張った。軽く会釈をして更衣室に入った彼女らの背中を目で追いながら、私は言いようのない気分になる。

 横目でうかがえた上履きの数からして、更衣室の中にはまだそれほどの人がいるわけではないようだ。

「ねぇ、あの子たちどうして……」

振り返ると、裾を握りしめ恥じらいの表情で、すごい目であの子が私のことを見ていた。

彼女らが訝しがっていた理由が少しわかったきがした。

「……制服、まだ濡れてる」

「湿ってるだけです、もう帰宅するだけなので大丈夫です」

「風邪引くよ」

 彼女の肩の力が抜けたのが、わかった。私は彼女の手首を掴んで更衣室に入る。

入り口近くにさっきの子たちは見当たらなかった。少し気まずい気もして、私は手前の長椅子に腰掛ける。

「明日まで貸したげるから、それ着な」

「でも、愛理ちゃんは部活何を着るの?」

「ん、私今日は部活休むから」

「そんな、私のせいで愛理ちゃんを休ませるわけには……」

「筋トレ、嫌いなの」

 私は掴んでいた手を離した。

 衣擦れの音。と。ぱさりと、雪が落ちたみたいな音。

「ありがとう」

 きっと彼女は、笑っている。見てもいないのに確信できたけれど、やっぱり見てみたくなって、私は振り返った。

「ああ愛理さん、何をにやついてるんですかぁ!?」

 白い肌と桃色の下着と黒い髪。

 雨と彼女の匂いの染み着いた布が私の顔を覆って、色が消え、一瞬息が詰まった。

「私が着替え終わるまでそのままでいてね。なんか今の愛理ちゃんはイヤラシいよ」

 私はうなずいて、長椅子の上で仰向けになった。足をのばし両手を宙に伸ばす。

 私たちの学校の最寄り駅は二つあって、一つは歩いて七分、もう一つはその倍の十四分かかった。遠い方はとてもマイナな路線で、他の線での乗り継ぎもしにくく利用者は多くない。よほど遠い場所から来ているかそのマイナな線に自宅の最寄り駅がない限り。私はマイナな方を使っていた。だから、いつも私は一人で帰る。私の仲のいい友達はみな、近い方の駅を使った。

  

 

4

 玄関前で野球部がバドの羽根を球代わりに打っている。部活着姿の後輩が階段を上っていったのが見えた。たむろするサッカー部。楽器の入った黒いケースを抱えて歩く女の子。サァーっという白い雨の音と、混じり合う放課後の空気。

 雨の日なのだと、つくづく思う。

 内に閉じこめられていた。籠もっていて、一見窮屈にも感じられるけれど、私は嫌いじゃなかった。いつもならこの空間の一部となるのだけれど、今日は違う。

「いいですよね」

 ため息を零すように、あの子は呟いた。私は一瞬どきっとする。一瞬、この感傷を共有したのかと思った。

「かもね」

 真意を確かめるようなことはしない。そんなことに意味はなかった。

 私が傘をさして歩く横で、彼女は楽しげに笑っていた。ひまわり色の傘はやはり彼女にお似合いで、でも私には合わないのだろうなと思う。ダークブラウンの長くて綺麗な髪。少しの化粧もしてないであろうに、瞳はぱっちりとしている。悩みなんてなさそうだ。

「愛理さんは晴れと雨、どっちが好きなんですか」

 傘の柄を少し持ち上げて、彼女は私のほうを向いた。雨合羽を着たおばさんが自転車で通り過ぎる。前カゴにのったビニール袋を見ながら、私は濡れちゃわないのかなと思った。

「あ、曇りって言うのはなしですよ」

「じゃあ曇りで」

「もう……!」

「あんたも大概じゃない。どっちってきいてるのに両方って答えてるんだから」

「えへへ、そうですね」

「かわいこぶんな、気持ち悪い」

「愛理ちゃん口悪いなあ……」

 たしなめる、というよりは悲しんでいる、そんな彼女を私はみる。

「あ、今朝のお花」

 愛理さんの言った通り雨に打たれても元気だよ、とあの子は声を弾ませる。私は立ち止まった彼女を無視して歩いた。少しゆっくり歩く。

 坂の途中にあるマンホールは濡れていて、少し滑った。雨は小降りになっていて、もしかしたらもう少しで止むかもしれない。止んだら彼女は悲しむのか喜ぶのかどちらだろうかと考えて、きっと両方なのだろうなと思った。

 あの子の後ろから追いかけてくる気配を感じて、私は歩調を戻す。

 坂を下って、小さな横断歩道の信号が変わるのを待った。彼女は横にいて、たぶん目をつむっている。赤信号の光。私はそれを横目でみて、目を閉じた。車の低いエンジン音。枝葉のこすれあう音。本当に僅かな雨の音、砂を転がす風の音に似た雨の音。どっどっど。かさかさかさ。さぁさぁさぁ。

 ぴよぴよぴよ、と強い音が空気を震わせて、私は目を開けた。ここの横断歩道はいつも、青になるとけたたましく鳴き出す。視覚が戻った瞬間に、音は混じり合い、それぞれの判別がつかなくなった。

 私が今朝入ったコンビニの前。入り口にある階段とスロープはくすんだ灰色をしている。自動ドアが開くと同時に「またお越しくださいませ」の声がきこえた。ぼわっと、視界が揺れて、スロープを塞ぐようにたむろする学生と、階段と坂の前でおろおろするおばあちゃんが顕れる。手押しのカートからは、白いビニール袋がのぞいて。あの子が先だったのか、私が先だったのかはわからないけれど、私たちは二人で立ち止まった。そんなに長い時間ではなかったと思う。十秒か、そこら。このとき、初めてあの子と同調できた気がした。きっと私と彼女は、貴重な十秒を共有した。音が消える。消えるというよりは、私とあの子の空間だけが、切り取られたような。長く永く感じて、腕や背中や足の産毛が逆立った。私はたしかに、恐怖を感じた。そう思うと、私と彼女が共有していたのは偽物の時間なのかもしれない。

 

だって彼女は、たぶん恐怖しない。

 

 結局、学生の一人が気づいて道をあけた。あっさりとしたものだった。ロボットのように重たげなおばあちゃんの歩み。学生たちはしばらく黙り込んでただそれを見ていた。私たちは、歩き出す。階段を上る革靴が響いて、扉が鈍く鳴き、いらっしゃいませーこんにちわぁと言う声が聞こえた。

 彼らが気づかなければ、おばあちゃんはどうしていたのだろうか。……見ていた私たちは、どうしていたのだろう。

 もし何かを言ったら、その結果彼らはどうしていただろうか。言い方を変えたら、どう変わるだろう。みんなが悲しまずにいられる方法は、あるはずなのだ。だって現に、今は誰も傷ついていない。

 私たちは歩いている。それはなんだか、とてもすごいことに思えた。

「あんたはさ、悲しくなったりするの」

「なりますよ」

「どんなとき?」

「……急にそんなこときかれても、わからないよ」私たちはゆっくりと歩いている。「悲しいことはすぐ忘れちゃうし」

「ふーん」

「ていうか、ひどいよ愛理ちゃん。私をなんだと思ってるの」

「雨の日に傘もささずに笑顔で佇むハッピーな女」

「あ! 今の! 今のすごく悲しくなった!!」

 私とあの子の肩と肩が、ぽーんとぶつかる。悲しげに目を伏せるあの子をみて、私はちょっとだけ笑った。

 駅にたどり着くと、改札前には人だかりができていた。彼女が私を見ているのを横目で確認する。

「どうしたんだろ」

 あの子が知っているはずもないのに、私はそう言った。

「何かあったみたいですね」

 改札は人でごった返していて、ホームの様子を伺うことはできない。私たちは足を止める。どうすればいいのかわからず、かと言って誰かに訊くこともできず、ただ棒のように立ち尽くす。

 少し濁った、男の声がきこえた。たぶん、「あと数時間は動かないとか」「ふざけんなよ」「どうやって帰ればいいだよ」「クソ」などと、言っていたのだと思う。人の群が一つの集合体となり、一人の男となったように思われた。だから悪態をついていたのは、みんなとも一人だけとも言えた。

 私たちは顔を見合わせる。あがりきった踏切の棒と、灯らない赤いランプ。線路の真ん中で立ち止まるのは新鮮でどこか非現実的な気がする。

 電車は十メートル先くらいに見えるけれど、動く気配はなかった。あ、と彼女が声を漏らす。空を仰ぐ彼女の顎の輪郭は、柔らかく綺麗だ。

「雨、止んだね」

 独り言のようだった。だから、返事をしない。

 私が顔をあげると、白色の雲の間から、ちょうど陽の光が差し込んでくるのが見えた。光はまっすぐとあの子の元へと伸びていき、あの子を照らす。彼女の着る赤と黒の運動着は、ひどく場違いな気がした。

 二人で傘を閉じた。ひまわりの花はしぼんだけれど、彼女はうれしそうだ。

「太陽は好き、です」

「それは……」

 わかるかな__と続けようとして、けれど私は躊躇い、そしてやめた。彼女の「好き」は、きっと並大抵の好きではない。私が共感できるくらいの、平凡な「好き」であってはいけないのだ。

 

 

5

 私たちが歩くことに決めたのは、深い理由があったわけではなかった。ただ、駅の近くの喫茶店で時間を潰すというのも何となく面白くなく、かといって違う交通機関を利用するのも家の場所的に都合が悪い。とか、なんかが色々重なった結果、私たちは誰ともなく歩き始めたのだと思う。学校から家までを歩いたことなんてもちろんないから、私たちはただ線路に沿って、ゆっくりと歩む。初めて通るはずの道だったけれど、電車の中からみた景色と重なってどこか既視感を覚えた。

 知っているようで知らないことは、漠然と不安を抱かせる。

 でも彼女は____、やはり笑っている。

「こわくないの」

 私の声は平坦で、それは質問をしているようにも主張しているようにもきこえただろうし、そもそも何を差して言っているのかもわからなかっただろう。私だってわからない。

「こわい」

 定かではなかった。彼女が訊いたのか、答えたのか。私はそれを、質問と解釈することにした。

「怖い」

 怖くて仕方がなかった。私にとって、この世界が恐怖の対象に他ならなかった。私の頭がおかしくならずにすんでいるのは、辛うじて知っている場所で、必死にバリアをはって閉じこもっているからだ。

「愛理ちゃん、大丈夫?」

「あ、……うん」

「ここ、暗いもんね」

 並木道と言うべきなのか、森というべきなのか、たしかに線路に沿って歩いていたはずだったけれど、いつのまにかよくわからない道を辿っていた。暗い。野放しにされているのか、鬱蒼と茂っている木々は粗野で、荒々しく感じられる。街灯は未だ灯らず、傾き続ける陽も届かず、この時間帯のみに訪れる、ほんの一瞬の闇を、私たちは歩いている。

「怖い、ね」

 とあの子は言う。

「手、繋ごうか?」

唐突に温かさが欲しくなった。だから、こんなことを言った。

 言ってすぐ、細い指が私の右手にふれた。

「いいの?」

 訊いておきながら、あの子はもうすでに手を握っていた。

 ありがたかった。

 1人はもう嫌だから。

 

  あの子の手には現実味がなくて、強く握ったら消えてしまいそうだ。

「ねえ、愛理ちゃん。黙らないでよ」

 ぎゅっとあの子の指先に力がこもる。私は喋らない。彼女は私の肩にひっつくように寄り添って、私たちの歩みはより遅くなった。きっと今、彼女は不安なのだろう。不安で、悲しんで、傷つくのだろうか。ひとりぼっちになったら、泣き出すだろうか。

「ふふっ」

 想像したら、可笑しかった。この後の展開が予想できて、それもまたおかしい。

「愛理ちゃん、泣いてるの?」

「違うよ」

 笑いのふるえが、彼女まで伝う。

「そっか。よかった」

 湿った土の匂いがする。右手にふれるあの子の手のひら。柔い肌の温度が私の手を伝いひろがり、じんわりと馴染んでいく。

 瞳を閉じて歩くのは、思ったよりも楽しいものだった。きっと今だから、楽しいのだと思った。

 もう数十分経った気もしたし、数分の気もしたし、数秒だったかもしれない。私が瞳と口を閉じていたせいで、あの子の歩みは遅かった。

 名残惜しさを感じる間もないくらい、あっさり手が離れる。

「あかりです!」

 まるで遭難者が救助隊に見つけられたときのような歓喜。

 彼女が一度、私の腕を引っ張る。じれたように腕を振って、諦めて、一度躊躇ったのちに「愛理さん早く!」と言い残して走り去った。まるでうさぎのようだ。

 私は自分でも気づかぬうちにあいていた目を、よくこらして彼女の背中を追った。

「見てください」

 舞台のシーンが暗転して変わるときのような、劇的なものだった。

 横幅のかなり広い川が左下から右上に伸びて、ちょうど真ん中を赤い橋が切っている。河原にはまばらに人がいて、私たちはそれを見下ろすような高い土手の上にいた。犬の散歩をする、青いブルゾンを着た青年。騒がしい野球少年たちの声。鳥の影が空の赤い雲にアクセントを与え、川はどこまでも広がっているように見える。

「すごく綺麗な夕日です」

 あの子の言葉に、私は息を詰まらせた。

 彼女がこちらを振り返ったのと同時に、光を受けてきらっとする宝石みたいな眩しさを目で受け止め、私はしばたく。一歩一歩近づくごとに彼女の頬の赤色は増して、とても綺麗だ。

「太陽は私たちを待っていたんですね」

 地面から放射線状に空へと広がる赤と黄。横に細長い雲たちが一身にその光を浴びている。陽は沈もうとしていた。太陽が待っていたというのは案外一致していて、写真に収めるのだとしたら今この瞬間こそが最適である気がした。私たちを待っていたと言っても差し支えないほど、完璧なこの一瞬。

 私は彼女の言葉を傲慢に思った。それはとても美しい傲慢だった。

 傲慢にも、この世界すべてが自分宛のプレゼントだと思い、受け入れる。

 ぐわっと、お腹の上のほうからこみ上げてきたのを、私はあわてて飲み込んだ。喉がなる。胃に落ちたはずのつばがまるで逆流したかのように、鼻が苦しくなって目尻に涙がたまった。

 どんな感情かはわからなかった。ただ一つ、溢れてくる想いがあることだけはわかった。太陽か、あの子か、それとも太陽とあの子か。胸の中でうねる感情は、私のものであるはずなのに、まったく理解できない。苦しく、痛く、辛く、そして____幸福を感じてしまう。

「ほんと、綺麗だ」

 はい、とあの子は頷いた。

 

 

6

 行くあてもなく、私たちは川沿いの土手を歩く。目的の定まっていない歩みに、意味はあるのだろうかと私は思う。けれどきっと、彼女は__

「何見てるんですか?」

 弓なりに続く道と、太陽と、光を反射する大きな川。彼女の笑顔と、空と、私。

「なんでもない」

 私たちはしばらくふらふらと歩いていた。川に架かった鉄橋の下まで差し掛かって、私たちはがたんがたん! という音をきく。

「あ」

 たぶん、二人して声をそろえた。

「駅、行こっか」

 どちらが言ったのだっけ。私たちは目的地を定めて、歩むのだった。

道行く人をみながら、私は言いようのない遠さみたいなのを感じた。

 私は他の人とは違う。そんな気持ちはあらゆる他者に対する優越感であったかもしれないし、疎外感かもしれなかった。

「あんたさあ、自分が特別って、思ったことある?」

 私はいつも思う。思って、とても嫌な気持ちになる。優越感も、疎外感も、自分がしょうもない人間であることを知らしめているもののような気がした。

「思うよ、私は特別」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、私は驚き瞬きを二回してしまう。あの子は至極まじめな顔をして、太陽に照らされた顔を眩しげもなくあげている。

「みんな、特別だよ。ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」

周囲の音がきこえなくなった。いつになく真面目な顔をして私をみるあの子をみる私。金属バットとボールの当たる小気味良い音がきこえて、私は息を吐くように吹き出した。

「さむっ」

「いや、熱い言葉でしょ!」

「寒いよ……。風邪引くわ」

「何それ」

「……何でもない」

土を蹴って歩くランドセルを背負った子どもたちが私たちを追い越す。私たちは彼らを目で追いながら、土手をゆっくりと歩いていた。

 歩く道の先に何かを見つけたのか、あの子はあの子の持つ特徴的な瞳を地面に向けている。

あまり目の良くない私はちょっと歩いてから、ようやくそれが白い花だということに気づいた。花の名前は知らない。彼女は知っているかもしれなかったが、きくことに意味があるとは思えなかった。

「花、好きなの」

 私は訊いた。あの子はゆっくりと、小さく、うなずく。

「だって、まっすぐだから」

 

 

 太陽がいなくなると、空は青白くなった。かちかちっという音とともに白い電灯がともり、あたりはまるでさきほどとはまったく違う場所のように、冷たく、寂しく映った。

 線路に沿って、どこかの駅にたどり着いた。その頃には空は暗く、人も多くなっていた。

「混んでるね」

 居心地はよくなかった。コンビニやレストラン、ゲームセンターなど、賑やかで人の出入りが激しいところばかりだ。

「そうですね」

あの子はお花畑にいるかのように陽気だ。

 人と人との距離が近くて歩きにくい。こんな場所は、嫌いだ。

「ぁっ」

 そんなことを考えていたからだろうか。五十代くらいのスーツをきたおじさんと、私とあの子とが、同じ方向に避けようとしてぶつかりそうになって、お互いに一度立ち止まった。

「ちっ」

 どこみてんだよ、と。聞こえるか聞こえないかの小さな声で悪態をつくおじさん。私は一瞬頭が真っ白になって、何も言葉が出てこなくて。背中がぞくっと冷たくなって、心臓がふるえて。

 え、何。私が悪いの。……どっちもどっちじゃん。……文句があるならはっきり言ってよ。……せこいよ、あんた。

 ずるいと思った。人を傷つける言葉を平気で使って。しかもたぶん、こっちが今文句を言ったら知らん顔でそそくさといってしまうのだろう。だから、わざわざ小さい声で言ったんだ。

 ____でも、あの子は。心から、謝りの言葉を述べた。

「すみませんでした」

 時間が止まったかのように錯覚したのは、きっと私だけではないはずだ。深々とお辞儀をしたあの子は、太陽よりも眩しい笑みを浮かべ、おじさんを見ている。

 私は再び胸からこみ上げてきて、__気づいたら駅とは反対の方向に走り出していた。

「愛理ちゃん!」

 遠くあの子の声が聞こえた気がした。

 ぐるぐるとしていて、どろどろとしていて、黒くて、重くて、気持ちの悪い何かが胸から溢れ出てきそうで、怖くなった。傘と鞄に、靴はローファー。スカートをはためかせ、人混みの間をぬって走り続けた。たいして時間のたたないうちに疲れて、私は人の少ない細い道に入り、脇でしゃがむ。自動販売機の光が目映く辺りを照らしていた。

 タバコの吸い殻が目に入って、泣きそうになる。

 震える右手をおさえて、ローファーで何度も何度も何度も、その吸い殻を踏みつけた。

「……優しくなんて、なれないよ」

 呟いてみると、少し楽になれた。でもそんなことをしているとこも、逃げているようで、嫌いだった。空き缶が落ちている。コンビニの袋とタバコの空箱。壁に背中をつけて、膝を抱えて、ふとももに顔をつける。壁に寄りかかった傘が地面に倒れる音がした。

「優しいですよ、愛理さんは」

 顔をあげると目の前にジャージ姿のあの子がいて、私はまじまじと見つめてしまって。

「……嘘だ」

 そして再び、顔をふとももにこすりつけた。

 夜になって、風が強くなって、少し肌寒い。ひゅるると風の鳴る音と、雑踏の音と、車の通り過ぎる音が遠くに聞こえる。顔をあげたら、もうあの子はいなくなってしまっている。そんな不安感を覚えた。

 右腕のほうにかすかな温かさを覚えて、あの子が隣に、私と同じように座ったのだとわかった。壁はコンクリートで、ブレザー、すごく汚れそうだなあといまさらながらに思う。

「タバコのポイ捨てする人をみると、殺意がわく。でも、注意することはこれからさき一生ないんだと思う。……困っている人をみたら、かわいそうだって感じるくせに、きっと私は何もしない」

「……愛理ちゃん」

「わかってるんでしょ? ぜんぶぜんぶ、偽物だ」

 私の声は、ひどく嗄れていた。

 彼女は相変わらず笑っている。美しい笑顔、すごく本物にみえる。

「愛理ちゃんは、まっすぐだね」

 どうして彼女の瞳は、こんなにも透明なの?

「やっぱり私は、傘をほかの誰かにあげることなんてできない」

「でも、同じ傘にいれてくれた」

 あの子はふふ、と笑う。

「いれなければよかった。ずっと、みていればよかった」

「うれしかったよ、愛理ちゃんがいてくれて。だから……」

 ありがとう、と。

 彼女はそう言って立ち上がる。

 ひまわりの花がぱっと咲いて、自動販売機のあかりに照らされた。

「雨が降ると、うれしくなるのは、この傘のおかげなの」

 くるくるとひまわりの絵がまわって、彼女は横から顔を出してこちらをみる。

「じぶんがひまわりになった気がしてきて、わーい、恵みの雨だぁって思って、もっとふれふれ、まっすぐのびろーって……」

「うん」

「私はひまわりじゃないんだけどねー」

 そう言って、彼女は再び笑った。

「知ってる」

「泣かないでよ、愛理ちゃん」

「泣いてないし」

「そうかなぁ」

 穏やかな声で、あの子は笑う。

 私は嗚咽をこらえきれない。

 まばたきすると、一瞬彼女が消えたかのようにみえた。

 もう一度まばたきをするかしないかの間に、再び現れる。

「さっきのおじさん、あんたのこと見向きもしなかった」

「私は気にしてないよー」

「違う、違う……!」

 声を荒げた私を、優しい瞳で見つめている。

 そんなあの子の名前は、____なんだ?

「あなたは完璧で、私にとっての理想で、だから見るのがしんどい。……それだけだと、思ってたのに」

「大丈夫だよ、愛理ちゃん」

「にせ……もの、だったんだね。笑っちゃう、馬鹿みたいだ」

 頬を伝った涙が、地面に落ちる音がした。

 彼女は何も言わず、私をただ見ている。

「先生は、私にだけ声をかけた。一年生は、喋る私を見て怯えていた。道ゆく人は、みんなあなたを無視する」

「……うん」

「まるで誰も、見えていないみたいに」

 最初からぜんぶ、偽物だったんだ。

 ひまわり色の傘も、幸せそうな表情も、他人に向ける優しささえ。

 

 私が作り出した、幻にすぎない。

 

「ぜんぶ無意味だったなー。なんで声かけちゃったんだろ」

 見ているだけだったら、気づかずに済んだのに。

「愛理ちゃんは、なんで声をかけてくれたんですか?」

 まるで神様みたいだ、と思った。

 地面に落ちた逆さまの傘と、風にたなびく長い髪。

 自動販売機の人工的な青白い光が彼女を包んで、後光がさしているようにも見える。

 なぜ、今朝あの子に声をかけたのか。

「私さぁ、小さいころ、この指を火傷したことがあったんだ」

 腕をあげて、右手の人差し指を彼女に向かって突き出す。

「お母さんが料理を作る、そのガスコンロの炎が、すごくきれいで……」

 視界が揺らめく。

 わさびを食べたときみたいに鼻がつーんとして、声が震えていくのがわかった。

「本物かどうかが知りたくて、触ってみたんだよね。そしたら熱くて熱くて、数週間は痛みがとれなかった。__でも、うれしかったんだぁ。誰も知らない、この青い炎の温度を、私の指は知っている。実際に触ってみて、初めて本物なんだって実感したから」

 はっ、と私はいつのまにか下がっていた顔をあげる。

 青白い光を放つ自販機と、……それ以外には何もない。

 

 

 次の日は、昨日の雨が嘘だったかのような快晴だった。

 コンビニを出て、学校へと続く坂道を上る。

 太陽が鬱陶しいくらいにまぶしい。

 軽いイライラを感じながら、ふと、あの子だったらどうするだろうかと考えた。

 答えはさっぱりと出てこない。

 坂の上までくると、私は右手を天にかざして、陰をつくる。

 ビニール袋からいろはすを取り出して、フタをゆっくりあけて、今にもぐしゃっと潰れてしまいそうなペットボトルを握って、空を見上げて水を飲む。

 緑のキャップを持った方の手の甲を、口にあてる。

「愛理さん」

 優しい、太陽みたいな声。

 聞き間違えだ。

 幻聴だ。

 いるはずはない。

 わかっているのに、私はこらえきれなくて、横を向く。

 コンクリートの塀に。

 地面との境目には、白い花すらない。

 彼女が助けようと傘を差し出したものすら、偽物だったんだ。

  

 かなしくて。

 むなしくて。

 どうしようもなく、泣きたくなって、私はしゃがみこむ。

 

 緑の草が塀と地面の間から生えていた。 

 雑草だ、と私は思った。コンクリートから生えてくるものはたとえ大根であろうと、雑草のように思えた。

 

 __みつけてくれて、ありがとう

 

 私は驚きすぎて、言葉を失う。

 雑草だと思っていたものは、よく目を凝らすと、小さな小さな、ひまわりの花だった。

 まっすぐに空へと向かって伸びたそのひまわり。

 あの子が大事にしていたひまわり。

 私は必死で口元を隠して、辺りを見回した。こんな顔、知ってる人に見られたら恥ずかしすぎる。

 心が浮ついてきて、洗濯機みたいにごちゃまぜな感情が溢れ出る。

 ムカついてたまらないのに。

 悔しくてたまらないのに。

 嫌いでたまらないのに。

 どうしてこんなに、__幸福を感じるのか。

「あんたの方が、まっすぐだよ」

 手に持ったいろはすの水を、少しずつ、ひまわりにかける。

 黄色い花弁が水滴をはじき、風が吹いて水が一筋、葉を伝った。

「やっぱり私は、自分の傘を誰かにあげるのは無理みたいだ」

 苦笑してみせると、ひまわりの花は風に吹かれ、二度三度、返事するように横に揺れた。 

 

  

             END

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