私と愛とスカート

 私は笑いながら、つまんね、と思った。手首の内側に巻かれた小さな腕時計へと目をやる。のろのろと動き続ける秒針が一周するのを、私は悟られないように、前髪で顔を隠しながら見ていた。
 早く帰りたかった。居酒屋特有の喧噪も、黄色い灯りも、背もたれのない椅子も、すべてが煩わしい。コップをもって、口につける。甘い液体がのどを通る。うわくちびるを舌でなめると、カシスオレンジの味がした。
 私は今、世界で一番不幸だ。なんて。気持ち悪いほど、酔っている。自分に、酔っていた。
 楽しいことってなんだろう、と思った。何をしてるときに私は心から笑えていたのだろう。少なくとも、高校の頃は楽しかった気がする。休み時間には何となく集まってクラスの仲のいい子たちと喋って、放課後は部活にいって、部活のない日はバイトをしてた。忙しかった。何かを考えるひまのないくらいやることがいっぱいあって、目の前のものがすべてだった。でも、大学に入って、急に何もかもが変わった。
 寄生をしていたんだと思う。高校の頃の友達は、別にすごく気が合うから仲良くなった、といったわけではなかった。でも、一緒に長いこといるうちに仲良くなる。相手のことをよく知るようになって、隣にいても居心地の悪くない関係になった。きっと、お互いに寄りかかっていたのだ。
 大学に入って、とたんに放り出された気がした。授業もみんなばらばらだから、ずっと一緒というわけにはいかない。めまぐるしく変わる人間関係に、求められない安定性。不安だった。どこの集団にいても、不在感を覚えた。自分がここにいるべきではないのではないか、といった気持ち。
 今も私は、孤独を感じている。一人でいるときには感じたことのない、強烈な孤独。周りが騒げば騒ぐほど、私とそのほかの間に境界線がひかれて、遠ざかっていって、寂しくて、仕方がない。
 帰ろう。
 これ以上ここにいても、どうにもならないと思った。代表の姿を探して周りをうかがうと、入り口から一番離れた卓に、女の子が一人で座っているのが目に入る。同学年だろうか。少し若く、あどけなくみえる。今日は貸し切りだったから、大学生には違いなかった。
 膝下まである白のフレアスカートにトップスはシンプルに黒。長い髪は肩の下までのびていて、艶やかな黒色にのった銀のピンがきらりと光った。
 白い肌はとても柔らかそうで、人差し指でつっつきたい衝動にかられたが、私の目を引いたのは彼女の服装でも容姿でもない。
「何、してるんですか」
「ばふぁふぃふぉいふぃえんあから、__ごくん。けいごはやめてください」
「……なんでそんな食べてるの」
「美味しいよ?」
 彼女はサラダを一皿まるごと手にかかえ、ほおばっている。
 周りには誰もいない。まるで皆が彼女を避けているかのように、というよりは、よほど無関心なのだと思った。誰にも想われていないこの女の子をみていたら、私はましだと思う。
 ためらった。頬をひっぱたいた相手に、痛い? ときくような愚かな行為だ。
「楽しい?」
 私はとても、イヤな奴だ。優越感に浸りたくて、今この子と話している。胸が苦しくなった。口に残った甘みが、舌の上でざらつく。免罪符を得るために、拳を強く握った。爪が食い込んで、血が出ればいい。
「うん、楽しい!」
 風が、吹いた。強く強く、私の心にかかった雲を一瞬にして吹き飛ばしてしまうくらいの、大きな風が。胸にたまったむかむかを吐き出すみたいに、目から滴がこぼれてくる。黒猫の絵の入ったハンカチでふいた。
 彼女の、清流の透き通った水のような溢れ出る笑顔。世界にも、他人にも、自分にさえ嘘を吐いてない。
 あぁ、生きている。少女と呼んでもいいほどの無垢さを胸に抱くこの女の子は、たしかにこの世界で生きていた。
 生きたい、と思った。
 きっと私が希薄なのは、死を身近に知らないからだと思っていた。だから、現代に生きる私たちはどこか、空虚なのだと思っていた。必死さがないのだ。必死になる必要がないのだ。だから、きっと家族の誰かが死んではじめて、私も自分の生を実感できるのだと、勝手に考えていた。
 でも今、眩すぎる生の光を感じて、私は激しい感情におそわれた。
 生きたい。唐突に胸からこみ上げてきた強い想いは、しかしあらわれたときと同じように一瞬でしぼんだ。
 彼女は口元から箸をゆっくりと離して、私をみつめたままそしゃくをくり返す。
「楽しくないの?」
 まるで子どもだ、と思った。純粋で、無垢で、だからこそ時に残酷である。だが強烈に主張する彼女の、子どもという顔はどこか未完成の仮面に思えた。ただ無知なわけではない。その表情の中には、たくさんのことをみてきた者のみが持つ、叡智の井戸が深くほられている。彼女は選んだのだ、と私は確信した。
「たのし……く、ない、よ」
 思った以上に、言葉を吐き出すのは苦しかった。心で思うにとどめず、胸から言の葉を取り出して人に観測されてしまえば、確定してしまうのだと思って怖かったのだ。言葉にしてしまえば、それは一気に現実味をます。
「なんで?」
「理由なんか、……ないよ。ただただ、楽しくない」
 別に、友達といるのはつまらなくない。でもめちゃくちゃ楽しいかときかれれば、違うと答えざるをえなかった。私の海は、凪いでいる。風は吹かず、波も荒れることはない。平和だし、傷つくことはないし、ここにいればうとうとと微睡んでいられるから、嫌いではなかった。けど、代わり映えのしない景色にはもう飽きていて、きっと生きるためにすごくがんばらなければいけなくなったら、あっさりと死んでしまえるのだろうなと思う。
「じゃあどうして生きてるの?」
 え、と思った。言葉にはならなかったけど、顔には多分、でていた。あまりにも自然に、柔らかく溶け込んできた彼女の言葉。
 悪意なんか微塵もなさそうな笑顔で問いかけてくる彼女は、ただ気まぐれな質問ではないと主張するかのように、私をじっとみている。
 もうすべてがつまんない、今日みたいな日に、よく私が私自身に問いかけてきた、言葉。だから答えは、もうでていた。
「死ぬのも、怖いから」
 私が今生きているのにたいして理由がないのと同じように、絶望も悲しみも苦しみもないから死ぬ理由もなかった。
 生きるのと死ぬの、今は死ぬ方が怖いけれど、多分いつか、怖さは生の方へと傾いて、そうしたら死んでしまうのかもしれない。
「夜風にあたりたいわ」
 彼女は立ち上がりかばんを手に取ると、何の迷いもなく代表の座っている卓へと近づき、あいさつをして戻ってきた。
「いこ」
 私は一瞬虚を突かれて、彼女の顔をまじまじと見つめる。まるで鏡みたいに、彼女も私の顔をしげしげと見つめた。
 夜の海の波寄せる音みたいにしっとりと黒い髪がはねて、流星が空に光の尾を引くように余韻はその場に留まる。私はかばんを肩に引っかけなおして、滞った空気を押しのけるように出口へと向かった。
 外に出ると涼しげな風が私の顔の前を走り抜けて、前髪がつられてふわりと跳んだ。
 彼女はビルとビルの間から夜空を仰いでいる。夜でも明るすぎるこの場所では、星は期待できない。
 彼女が私をみた。叡智をたたえたその瞳には、希望と呼ぶべき光が宿っているように思えた。それとも、その想いこそが私の希望なのだろうか。
 私が彼女をみていると、促すように彼女は再び空をみる。
「空って、みてると安心感があるよねえ。とてもきれいだし、いつも変わらないでしょ」
 夜空には、一つ二つの弱々しい光の粒があるだけで、ほかは黒々としていた。この空の、何が綺麗なのだろうか、と私は思った。
 小学生の頃に父に連れられていった山の上でみた星空ほどきれいなものを、私は未だに知らない。ごつごつした地面に寝そべって、父と二人、ずぅっとみていた。飽きることなんてなくて、父が、寝るぞと言い出さなければ、私は夜が明けるまでそこにいた。
 でも空は変わらないはずなのに、今私たちの目の前にあるのは、まったくの別物だ。
 私の目には、別物に映っている。
 そういうことなのだと、なんだか急に、実感をした。彼女の景色は、変わらないのではないだろうか。だからいつでも、楽しいと思える。
「楽しくないって、思うことある?」
 静かな幸福を胸に秘めるかのような笑みに私はたじろぎながらもきいた。
「そりゃあ、あるよ」
 可笑しそうに、顔を一瞬くしゃっとさせた彼女は、言葉を探すように目線を左下にやる。「でも、つまんないなって、思ったことはないよ」
 期待はずれだ、という顔をしていたのかもしれない。その言葉は彼女の真実だったようにも思えたし、私をおもんばかるための優しい嘘のような気もした。
 どんな夢をみればこの子は、これほど楽しそうにしていられるのだろうか。それとも、彼女も明日になればまったく違う顔をみせて、私と同じように苦い味のした空虚を奥歯で噛んで、飲み下すのだろうか。わからなくなった。実感は消えてなくなって、彼女が本当は何をみているのか、知りたいと思った。
 首が痛くなって、仰ぐのをやめた。歩き出すと、少しして彼女の足音がきこえた。
「さめるの。誰かと喋って、笑っていても、とたんにすぅっと背筋が冷たくなって、まるで魂が抜け出たみたいに自分の背中が、周りの状況がすべて見えるようになる」
 駅へと向かう道を、できるだけ人混みをさけて細いとこを行く。ぴかぴかと光る怪しげな看板が目立ったが、まだそれほど遅い時間帯ではないからか、幸い私たちに声をかけてくるような人はいなかった。
「いやなの?」
 まるで素朴な疑問を口にする子どものように、彼女は口を開く。私は言葉に詰まる。思考も詰まる。そんなこと、考えたこともなかった。
「いやというか、急に冷静になって、なんだかつまらなくなって……」
「つまらない?」
「うん。グループから弾けだされた感じがして、孤独になったような思い」
「みんなと一緒じゃないと、楽しくないの」
 私に質問しているようにも、自分自身に質問しているようにも思えた。
「私はぁっ……」
 声がうわずって、息が大きくもれる。頭が少しぐらついて、もうこれ以上考えたくないと思った。
「いいよ、やめても」
 そこに嘲りはなかった。彼女は変わらず、永遠の幸福を口元に浮かべている。どんなことも、楽しいのだと断定してしまえるほどの、暗い海の底のような強さ。私はどうしようもなく、あまのじゃくだと思った。こんな顔をされたら、__やめたくない。
 でも。
「……わかんないや」
 悔しかった。でも、いくら考えてもどちらかを選べる気はしない。
 彼女はさっきよりも強く、ほほえんでいた。ネオンを離れて、人が少なすぎない通りを選んで歩む私たちの顔を照らすのは青白い街灯だけだった。
「本当に大好きなものって、ある?」
 大好きなもの。大好きって、なんだろう? と思う。私はうつむいて、母と共同で使っている少し高価なパンプスが視界に現れては消えるさまをみていた。「__してるもの」
「え?」
 私が顔をあげると、彼女は立ち止まった。後ろには人気のない公園がみえたけど、寂しさは感じなかった。
「愛してるもの」
 ふざけている様子は微塵もなかった。まっすぐな瞳は私を射抜いて、決して離そうとしない。
 愕然とした。こんな一途な瞳を、私は未だかつてみたことがない。何がそこまで彼女を駆り立てるのか。彼女は何を、愛しているというのか。
 新芽が土の中から顔をだし、太陽の光を浴びて驚くほど大きく育っていくかのように、私の関心が芽吹いていくのを感じた。
「愛って、すてきなこと?」
 花が咲いたかのように__、というよりは太陽そのもののように彼女は笑った。大きく、すべてを暖かく包み込むような笑顔。うなずくよりも、ずっと雄弁だった。
「言葉は水なの。だから、好きなときは好きって言わないと。好きっていう言葉の水を与えれば与えるほど、好きの心は育っていくんだよ」
 彼女の愛してるものが何なのか気になったし、きっときけば教えてくれるだろう。でも、そうするべきではない。私が自分の愛を本当にみつけるそのときまで、きくべきではないのかもしれないと思った。
 歩き出した彼女を追いかけるように私は歩き出した。風は優しく頬をなでて、とても気持ちよかった。
「そういえば、自己紹介してなかった」
 私の独り言に近いつぶやき。
「私は沙耶」
 彼女も独り言で返す。だから、私も。
「薫子」
 そっと、言葉をおいた。歩く私たちはその言葉たちを公園に残して、歩み続ける。もうしばらくは会うことはないだろうという秘密めいた予感を胸に抱いて、私はひらひらと風に揺れる沙耶のスカートを見続けていた。

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