変わる2人と涙:おじいちゃんとおばあちゃん

おじいちゃんとおばあちゃんが住む家に行ってきた。

ぼくのじいちゃんはお酒が大好きで、ときどき遊びに行っては、昼間から一緒にビールを飲んでいる。

お酒を飲みながら、じいちゃんはドイツ人にドイツ語で白雪姫の一節を語ってあげた話や、ばあちゃんが世田谷小町と呼ばれたほどの美人だったことを、嬉しそうに話す。

じいちゃんの話す内容はいつもほぼ同じで、たまに脚色された新情報が加わるのだけれど、もうそれが事実なのかどうかは、じいちゃん自身もわからない様子だった。

じいちゃんはぼくが生まれる前から、たぶんそんな感じで、とにかく話をするのが大好きな人だ。ぼくも話すのが大好きだから、たまにじいちゃんが口の休憩している間に、最近あったこととか、今興味のあることをぶわあっと話す。

一緒にいるのはとても楽しくて、たまらなく好きだ。

ばあちゃんは足を悪くしてから、どんどん認知症が進むようになった。

毎回ぼくが遊びに行っても、

「誰ですか?」

ときいてきて、

「ようすけだよ!」

と言うと、

「誰かと思ったあ」

とにこにことしている。

ここ最近はより進んでいっていて、会話もままらないことが増えた。

ばあちゃんと、じいちゃんと、ぼくの3人で会話をしていたのだけれど、うまく歯車が回らなくなって、会話らしい会話ではなくなっていった。

ぼくには悪い癖があって、誰かが間違えたり誤解したりしていても、流れをとめないように、適当な相づちや会話をする。

じいちゃんは正そうと、何度もばあちゃんに説明をして、会話を会話らしくしようと努めるのだけれど、どうしようもないくらいどうにもならなかった。

ぼくは笑顔で、ばあちゃんに、

「そっかあ」

とか、

「まあでも、今日寒いよねえ」

とか言っていた。

隣に座るじいちゃんではなく、なんとかばあちゃんの方だけを向いて、ぼくはにこにこしていた。

じいちゃんはたぶん、泣いていたのだと思う。

必死にこらえるように、手をいっぱいに広げて、自身の口をふさいでいる。小さなおえつみたいなのがきこえて、ぼくはそれに気づいた。

わからない。悲しいのか、悔しいのか。本当のところは、泣いていたのかさえ。

想像してみた。

毎日一緒にいるパートナーが、日に日に変わっていく様子を、見続けるということ。

周りのことを忘れてきて、家族を忘れてきて、どうにもできなくて。

それを、毎日見ている。

一年前までたしかにそこにあったはずのものが、今日にはなくなっている。

じぶんはどうすることもできなくて、それを見ることしかできない。

そのつらさが、悲しさが、どういった感情なのか。

どういう気持ちなのか。

ぼくにはわからない。

ぜんぜんわからない。

ただ、とても悲しくて。悲しくてたまらなくて、ぼくは家で一人、泣いている。

じいちゃんちで、こらえた涙が、今になってとまらなかった。

なんで、泣いているのか。

ぜんぜんわからなかった。

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