一緒にいるのが辛い人へ:たくさんの二人と共に生きる

アシタカヒコ、カッコ良すぎないか。

  

朝、もののけ姫をみている。

「お前にサンを救えるか!」

とモロが険しいオオカミの顔で声を荒げた。

それに対して、アシタカは、

「わからぬ・・・、だが、共に生きることはできる」

と言う。

この時点でもうかっこよすぎる。

すくう、すくわない、ってすごく難しい問題だとぼくは思っている。

すごく主観を伴うもので、

「俺がすくう」

だとか、

「すくってみせる」

って、使う使わないかはさておいて、”正しい言葉”ではない気がする。

それよりも、「すくわれた」みたいに、じぶん視点で言うべき言葉。

だから、アシタカが迷い、発した「共に生きることはできる」というセリフには、重みがあるのだと思う。

もっと前のシーンで、じぶんが死にかけ、サンに殺されかけ、それでもなお、息も絶え絶えに、アシタカは言う。

  

「生きろ、そなたは美しい」

美しすぎませんか、その言葉。

喉元に剣の切っ先を向けていたサンが飛びのくのも仕方ないことだ。

死ぬ間際に発するのが、相手に対して「死ぬな」と言うのでもなく、「そなたは美しいなあ」とだけ言うのでもなく。

生きろ、そなたは美しい。

だなんて。

一人、オオカミや森の者たちと共に戦い、人間から「もののけ姫」と呼ばれるサン。

そのサンの生き方、姿をみて、スッとそんな言葉が出てくるなんて、すごすぎる。

もうぜんぶおしまいだ、と言うサンに対して。

「まだ終わらない。私たちが生きているのだから」

なんか、アシタカと一緒にいたら、じぶんって生きてるだけですごいな〜ってずっと思ってしまいそう。

きっとたくさんの人の死をみてきて、自身も死の運命を背負ったアシタカだからこそ、「生きる」ことそのものの難しさと、「生きている」ことのすごさ、大事さを知っているのだろう。

「共に生きよう。会いに行くよ、ヤックルに乗って」

会いに行くってのがまたいい。そしてヤックルはかわいい。

結局、アシタカとサンが同じ場所で暮らすことにはならなかった。

彼にとって、共に生きる、とは、もっともっと広い意味なのだろう。

運命を一緒にするのではない。

共に生きて、共に死ぬような、そんなものではない。

死んではダメなのだ。

死んでは終わってしまう。

  

だから、アシタカは「生きろ」と言う。

  

共に暮らそう、でもなく、共に同じ墓に入ろう、でもなく、ただひたすらにお互いの生をみて、前を向いている。

共に生きる、とは、共に、別々かもしれないけれど、お互いの道をしっかり生き抜いて、その過程で交じったり交わらなかったりすること。

アシタカの生き様をみて、わかったことがある気がする。

そうか、と。

共に生きることはできる。

みんな同じなのかもしれない。誰かの人生に責任なんて持てないし、ずっと同じ二人で永遠にいる必要だってない。

二人っていうのは、もっともっと、ひろい言葉で。

みんなと、”共に生きること”ができるのかもしれない。

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