美術館の楽しみ方:糸杉とゴッホと上野の森美術館

公園内は広すぎて、どこに行けばいいのかわからない。園内の野球場で行われている少年野球は、ぽろぽろミスが多くて、どうなるかまったく予想できなくてハラハラして、 とても好きだ。

美術館も神社も動物園も桜も楽しめるこの場所に来るのは、たぶん二度目だった。

外は寒い。

人がたくさんいる。まるで満員電車みたいにぎゅうぎゅうで、景色も、静寂も、絵でさえ、純粋に楽しむことはできなくて、周りの人たちの立ち振る舞いが気になってしかたがない。

前のめりになって絵を見ている彼女の後頭部と、糸杉。

ぼくにとって、鑑賞は後ろ姿とセット。

何を考えながら、今この絵を見ているのだろうとかと考えながら、ぐるぐるうねうねした糸杉を見て、絵画って、二次元的な平面ではなくて、三次元的で、だから写真で見るだけでは足りないのだろうなあと思った。

中は暑い。

本展のハイライトのひとつである《糸杉》(1889)は、ファン・ゴッホが自分の左耳を切り落とし、サン=レミの精神療養院に入院した直後に制作したもの。

[https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20160:title]

糸杉は、西洋では死の象徴とされるものだけれど、長寿の樹であることから、ただ不吉な死という意味ではないようだ。

ゴッホは糸杉に魅せられて、何度も糸杉を題材にして描いたらしい。

クリスマスツリーも、糸杉が使われることが多いんだとか。

生死の狭間にあるような、糸杉は、ゴッホによってぐるぐるとうねって描かれていて、どんな気持ちで彼がこの絵を描いたのかはてんでわからなかった。厚塗りで立体的になっていて、横から見ると絵がただの平面ではないことがよくわかる。

ぼくは糸杉に惹かれていた。たぶん、適当だった。

絵画の鑑賞方法も、知らなければ、知識も何もない。

それでも楽しいなあとぼくが感じられるのは、一緒に行った人と、鑑賞という行動を、紐づけられるからだ。

ゴーギャンとゴッホが同棲していた当時、ゴッホが自身の耳を切り落とし、お気に入りの娼婦に送りつけた話は有名らしいのだけれど、彼女はうれしそうに、そのエピソードが一番好きなのだと教えてくれた。

糸杉はそんな事件とも呼べる出来事が起こった翌年に描かれたもので、そこにも、紐づけができる要素がある気がして面白い。

耳を切り落とし、好きな人に送りつけ、死の象徴でありながら豊かな生でもある糸杉に魅了されて、うねうねとした絵を描いたゴッホ。

キリスト教と決別したゴッホ。彼の考える自然と宗教が何なのかを知りたくなって、もっと調べてみようかなあと思った。

[https://blog.goo.ne.jp/kazenotikara/e/ef173839669758aef0da5ead9b91b563:title]

なんだか「糸杉」を見ていると、じぶんの心を見ているような気がしてくる。迷いや葛藤が、うねうねと、ぐるぐると心の中でしていて、ただ、それが何に対する迷いなのかがわからなくて、じぶんのすべてが中途半端で、狭間にいるような気がしてくる。

それは秘密めいていた。この絵を分析して、もっともっと解釈をしていけば、それはじぶん自身を知ることに繋がるようにも思えた。

結局、ぼくらは絵をみているのではなく、絵を通してじぶんをみているのかもしれない。

あ。

彼女が一番惹かれた絵をきくのを忘れていた。

今度会ったとき、きいてみよう。