心の仮面の物語

「僕はすべての繋がりを、一度切ってしまいたいんだ」

「つながり? どういうことだ?」

 お酒が入っていたからだろうか。私の頭はうまく回らず、まるで雲の上にいるような心地だった。

「繋がりだよ。人間関係、人と人と人との絡まりすぎた複雑怪奇な糸。僕はそれを断ち切って、どこか遠くに行く」

「つまりお前、一人になりたいってことか?」

 私としては、もっと簡単に話してほしかった。彼は昔から回りくどい言い回しが好きで、それは話が進むにつれてエスカレートする傾向にあった。

「違う。あー。ようは、リセットボタンだよ。ポケモンとかもあったでしょ、最初から、っていうの。僕は最初から、新たな人間関係の糸を紡ぎたいんだ」

 私は大きく頷いた。なるほど、わかりやすい。

「でもどうして?」

 もうほとんど、呂律は回っていなかった気がする。ぐるぐると揺れる視界の中で、彼の顔もぼやけて、けれど強い光をたたえた二つの瞳はよくみえた。

「君、自分が仮面を被っていることに気づいているかい?」

「俺は仮面なんてしてねえぞ」

 確認するように自分の頬を触ったが、どうやら強く叩いてしまったようで痛みが滲んだ。みっともないくらい阿呆になるのが私の酒癖だった。

「心の仮面だ、触れないし、見えない。人は幾つもの仮面を、時と場合によって使い分けている。君も心当たりがあるはずだよ。そうだね、キャラと言ってもいいかもしれない」

「なるほど。……具体的には?」

 本当は全然わかっていなかったが、例をあげてもらえれば理解できると確信していた。それだけ彼の例はわかりやすいというのもある__でも欠点はなかなか抽象的な話が大好きな彼は例を用いたがらない__が、もっと言えば私の頭はアルコールによって麻痺させられているだけで本当はこの程度の話を理解するのは造作もなかったからである。

「たとえば、先輩後輩という関係がわかりやすいかもしれない。君の先輩に対する態度と後輩に対する態度は大きく違うだろう? また親の前では甘えがちだが、小さい子に対してはそんなことはすまい。__このように、人は関わる人によってその性格が少なからず変わる。相手によっては、百八十度変わることも珍しいことではない。つまり、人はたくさんの仮面を持っていて、毎度毎度付け替えながら生きているんだよ」

「つまり、ひとはカミソリみたいなもので、刃を取っ替え引っ替えってことか……?」

「いや、少し違うよ。人が剃刀ならば、それはずっと変わらないということでしょ? 変わらない剃刀に対しては基本的に替える刃は同じものだ」

 私のふざけきった冗談にも真面目に答えを返してくれる彼が大好きだ。「少し」違うなどと大宇宙よりも大きな優しさを大和撫子もかくやといわんばかりのさりげなさで内包してくれるところとか、特に好き。

「それで、その仮面がどうしたって言うんだよ」

 彼はうんと頷いて、ぐっと拳を

握った。

「僕が思うに、人はみなこの仮面を使いこなしすぎている節がある」

「使いこなしているのなら結構なことじゃないか」

「上手に扱えることが、必ずしも良いこととは限らないよ。あまりにも仮面を使うのがうまくて、自分でもこれが仮面なのか、素顔なのかがわからなくなってくるんだ。そうして自分が本当は何者なのか、何をしたいのかがわからなくなったりする」

「まるで二重、三重とスパイを重ねていく諜報員みたいだな」

 Where is my identity?

「似たようなものだよ。僕らは僕らを欺き続けている。年を重ねれば重ねるほどね。同じ友人と言う言葉でも、それぞれの友によって僕らは仮面をかえる。こんなことはないかい? 君の友人二人、二人は互いを知らない、偶然一人の友人とお茶をしているときにその自分の友人二人目と遭遇する。__すると、なんだか気まずい。君も友達も、会話がなんだかとぎれがち。そしてそのまま友人2とわかれる。こういった気まずさは他ならぬ、君に起因しているんだよ。君はそれぞれに対する仮面を持っているから、二人が同時に現れたとき、どの仮面をつければいいのかがわからなくなる。混乱して、とても困る」

 私はつい、ほぅっとため息を吐いてしまった。彼の言葉に納得したのはもちろんそうだが、私自身がその理論を理解し納得できたことに何よりも驚いたのだ。すべてをお酒のせいにするのはさしもの私も抵抗を覚えないでもなかったが、彼の言葉には不思議な魔力のようなものを感じて、ききいってしまったのは事実だった。お酒のせいに違いない。

「お前はお前の素顔をみたいのか?」

「ああ、見たい。自分がいったい何者で、何をしたいのかが知りたい」

「今はやりたいことがないのか?」

 質問ばかりをしているな、などと思った。彼と私は、さながら異世界で散歩している親と子か、はたまた異世界のように摩訶不思議な講義の教授と生徒だ。

「あるよ、たくさんある。けれど多すぎるんだ。まるで僕の仮面の数だけあるようで、ほんとまいってるよ」

 本物を見つけださないといけない。そう言った彼の言葉は超合金よりも硬く、どんな伝説のポケモンよりも強そうだった。

「全部本物で、全部やればいいんじゃないか?」

 私の的を得た素晴らしいアイディアに感服したのか、彼ははばかることなく声を出して笑った。

「ははーん。大天才と言われたお前でも、これは思いつかなかったか」

 私が一人鼻を高くしている横で、彼の笑い声は止まらない。

 十五分は笑っていただろうか。正確には計っていないから定かではなかったが、カップ麺の出来上がるのさえ待てない性分の私を五回帰らせるのには十分な時間だったと思う。気持ち的に二分くらいだった気もしなくもない。

「いやあ、面白いなあ」

 しみじみと、彼は言った。続けて、「それは欲張りだ」と言ったかと思うと今度は吹き出してみせる。笑ってるとき、彼は人の声がまったく聞こえなくなることを私は知っていたので、隣で黙って笑みを浮かべていた。彼の特技七十二の一つに、哄笑が決して嫌味にならないというのがある。どれだけ笑おうと、そこに悪意や嘲りが含まれていないので、他の人もつい笑顔になってしまうのだ。ちなみに他の人もついつい笑顔にしてしまうのも特技七十二の一つだったりする。

「繋がりを切ることに惜別の情は抱いていないけれど、一つ心残りがあるとすれば君と会えなくなることだよ」

 笑いすぎて瞳に浮かんだ涙の粒を拭う彼。

「俺ももう阿呆の仮面を被れなくなるかと思うと、涙が滂沱と溢れてくるよ」

「バカだなぁ。そんなこと、泣きながら言われたって興ざめだよ」

 二人して、情けないほどに涙を流した。これほどに泣いたのは人生で二回だけだ。それが私が彼と会った、最後の夜だった。遠い風の噂で、その後彼はヨーロッパのどこかで交通事故にあって死んだときいた。

また、泣いた。

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