どうも、グーグルフォトの容量無制限がなくなるのをうけて悲しみに暮れてるようすけです。
ぼくはずっと写真が好きでした。
小学三年生のときに祖父に買ってもらったじぶん用のデジタルカメラ。
レンズカバーをスライドさせて、2インチにも満たない液晶画面を見ながらシャッターを切る。
切り取られたその一瞬。
年月を重ねてからあらためて見てみると、じぶんが想像していた以上の情報がつまっていることに気づいたのです。
人が写真を撮るのは、なぜなんでしょうか。
それはきっと、共有したいからなんだと思います。
じぶんが見てる世界を、他の人にも見てほしい。
でも視覚は共有できないから。
だから今日も、シャッターをきる。
ぼくが写真を撮る理由
写真をよく撮る人、撮らない人がいると思うけれど、今のスマホが何を売りにしているのかを考えたら、写真を撮る人がいかに多いかがわかる気がする。
ぼくは写真を撮るのが大好きだ。
この1年で1万枚撮っていた。
ただそれは、風景とか、美しいものとか、心に響く詩のような写真ではない。
どちらかというと、日記みたいなもので、見返したときに、ぼく個人に一番刺さるものだ。
人の写真。今一緒にいる人との写真。笑っている友だちの写真。遊んだ場所とか、食べているものとか、そういう、ほかの人たちにとってはどうでもよい写真。
忘れるのがこわい。ささやかな幸せは、すぐに埋もれるから。その場所に行ったのは覚えているのに、誰と一緒に行ったのかを、ぼくは忘れてしまう。一番大事なことなのに。何をするよりも、一緒だったその人が、何よりも尊いのに。
だから、写真は好きだった。
写真を見れば、思い出すことができる。引き金となって、その写真の前後の映像が頭の中で流れて、そういえばあんなことしたなあと思える。
ぼくはずっと前から写真を撮るのが好きで、けれどSNSにアップするわけでもないから、よく不思議がられた。
思い出用に残した写真を、わざわざ誰かにシェアしたいとも思えず、一緒に撮った人にもなかなか共有しないため、普段めったにやりとりしない人と、
「今日の写真ください」
「おけ」
というメッセージだけ送りあうこともあって、それはそれで面白い。
写真を見返して初めて、あ、こんなにこの人と一緒にいたんだな、めちゃくちゃいろんなところ一緒に行ってるのね、とわかることもある。暇なときに見て、ニヤニヤして、会いたいなあとか思ったりする。
ぼくが日記がわりに撮っているのとは逆に、写真を撮ろうと思って撮る人たちがいる。同じ写真でも、まったく性質の違うものだ。
一瞬の美しさに魅入られ、心を震わせるその人たちは、すごくすてきだなと思う。動画でも絵でも言葉でもない、写真。
昔の人が、写真を撮られたら魂を閉じこめられてしまうと怯えたのも、わかる気がする。写真はとても美しい。景色や人、言葉すらも時間とともに変わっていく中で、切り取られたその一瞬は、時間の前後を思い起こさせるのではなく、今を感じさせてくれる。
変わることは、すてきではあるが、同時にとてもこわいことだ。
じぶんの心さえも変わってしまいそうで、不安になることがある。
だから、彼らの撮るような写真があるのだろう。なにもかもが変わってしまうこの世界で、一瞬だけでも閉じこめて、心を震わせたい。
ぼくらは写真をみて、どこかほっとする。言葉はあまり出てこなくて、感情だけがにじんで、いいなあと、思う。
ぼくは、そういう写真を撮れない。けれどそれはそれでいいのかなと思ったりもする。
ぼくはぼくの撮る写真が、大好きだ。
そこには、人がいるから。
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