僕と愛とスカート終わりと
僕は冒険にあこがれていた。ここではないどこか、いまだ誰も見たことのない世界を、僕が一番前に立ってきりひらいていく。動物園の臭いをぎゅっと濃くしたような獣臭に、きいたことのないほどおぞましいうなり声。怖いけど、勇気をふりしぼって、仲間と一緒に歩く。命をかけて、互いの背中を守る。明日を生きることはできないかもしれないけれど、だからこそ今日という日を精一杯生きる。そんな冒険に、あこがれていた。
だから、小説は好きだった。物語の中では、僕は何にだってなれた。登場人物の彼らとともに、信頼しあって、同じ時間を共有して、世界を救った。
強さは、とても魅力的だった。強くなりたいと思った。守りたいものなんてなかったけれど、純粋に力に惹かれただけだったけれど、きっと、いつか守りたい人ができたときに、後悔しないためのものだと思った。でも、何でもあるこの世界で、生まれながらに満たされている僕らが、一生をかけて守りたいと思えるものが現れるのかは、疑問だった。
「あいつ、どこいった!」
僕は彼らに見つからないよう、よりいっそう身をちぢこませた。茂みに身体を隠して、僕では越えられそうにない高い壁に背中をつける。
「追われてるの?」
壁の上から、声がきこえた。顔をあげると、赤いランドセルをしょった女の子が僕を見ているのが見えた。
「うん」
よく見知った女の子の姿は、ちょうど防災倉庫の陰になって、彼らからは見えていないだろう。
「どうして?」
「よくわかんない」
「よくわかんないのに逃げてるの?」
「多分、僕がなんかしたんだよ。彼らが許せないようなこと。でも、どれが彼らのしゃくにさわったのか、今になっては考えてもしかたがない。もう怒っていて、僕はどうせぼこぼこにされる」
「どうせぼこぼこにされるのに逃げてるの?」
僕は肩をすくめた。
「痛いのはイヤだから」
「かなたは嫌いなものは最後に食べるタイプなのね」
「できれば最後まで残して、見つからないように捨てちゃうかな」
「私の手をとって」
よく晴れた日だ、といまさら思った。白くて大きな雲が太陽の光をうけて、そのもこもこ模様を浮かびあがらせていた。絵の具みたいに鮮やかな青色とセミの鳴き声が、夏はもう始まっているのだと、僕に告げているようだった。
「いずみちゃん、無理だよ」
「無理って思ったら無理なの、ほらいくよ」
いずみちゃんはフェンスをつかむと、あいているほうの腕を僕へとのばす。壁は、ジャンプをしても縁をつかめる高さではない。いずみちゃんの手は届くけれど、どう考えてものぼることはできない。僕がためらっていると、「いたぞ!」という声がきこえた。
いずみちゃんは、にんまりと笑いかけてきた。その笑顔が示す意味は言われなくてもわかった。僕はいったん茂みから出る。手についた汗をズボンでふいて、深呼吸をした。待て! と背中からかけられる声はだんだん大きくなってきて、でも僕はなるべく落ち着いて、いずみちゃんを見るようつとめた。太陽の光が目に痛い。
かなた、と僕を呼ぶ声がきこえる。その声めがけて僕は走りだす。茂みを飛び越えてその手をつかんだ。僕よりも小さな手はぐっと僕自身を引っぱる。息をするのも忘れて、無我夢中であいているほうの手を縁にのせた。一瞬痛みがおそって、悲鳴をあげそうになった。奥歯を噛みしめて、頭をあげた。いずみちゃんの手の力がゆるんで、僕は慌ててぎゅっとつかんだ。
「スカートの中のぞいたら殺す!」
僕が文句を言うよりも先にいずみちゃんが叫んだ。
「みないみない!」
悲鳴に近い叫びでようやく彼女は僕を引っぱりあげてくれる。
フェンスに両手でしがみついて、二人してぜえぜえと息を吐いた。
「おい、肩車だ! お前はあっちのほうから回れ!」
もう彼らは、すぐそこにいる。僕たちは無言のまま、落ちないよう壁づたいにその場を離れた。
いずみちゃんが前を走る。僕の手をひいて、家と家のすきまを体を横にして通った。僕の家の裏にもある四角い大きな箱は、うなり声をあげながら夏を詰めこんだみたいな風で僕らの髪をもてあそぶ。茂る雑草は壁からも生えていて、彼らを包むこともできずに、赤茶けた花瓶の破片が無惨に地面に刺さっている。ようやく反対側にでた、というところで僕が何かにけつまづいて、大きな音をたてた。
「こっちにいた!」
声を背に、僕らは振り返ることもしないで再び走り出す。かと思ったら、いずみちゃんはすぐに左手にあったアパートへと入った。しっ、と人差し指をたてて、静かに階段をのぼるよう指示をする。
ふつうにのぼれば顔が出て外からよく見えるような階段だったから、僕らは身をかがめて一段一段、音のしないように気をつけながら二階まであがった。
壁に背中をあずけて、息を整える。複数人の足音とともに、僕のことを追っているだろうやつらの声がきこえた。何を喋っているのかはっきりはわからなかったけれど、ここから離れる様子がないところを見ると、少し分が悪いように思える。
「いずみちゃん、何してるの」
「しっ、ちょっと黙ってて」
いずみちゃんは手にもった正方形くらいの小さな板を、しゃがんだまま空に向かってつきだしてる。
「なんで鏡なんて持ってんの」
「乙女のたしなみ」
素っ気なく返して、彼女は再び集中して角度を変えながら、最適な位置を探すかのように鏡をいじった。数十秒そうしていると、おもむろに中腰になって、僕についてくるよう手まねきした。
「どうした?」
「一人がこの中に入った。今は一階を回ってるみたいだけど、みつかるのも時間の問題」
「じゃあ早く出よう」
「ダメ、外にはもう一人待ってる」
「え、やばいじゃん」
「とぶよ、教えてるヒマはない。私が先にやるから、かなたはマネして」
「え?」
ききかえす間もなく、いずみちゃんは廊下の壁側じゃないほう、縁に手をかけて両足で立つと、ぐわっととんだ。がたん、とトタンの音が響いた。
「かなた、早く!」
ささやき声で目一杯叫びながら、彼女は僕の名を呼ぶ。
「む、無理だよ。こんなに高いとこ、落ちたら死んじゃう!」
僕も同じように返す。いずみちゃんはとなりの家の屋根に立って、僕へと手をのばしている。屋根は傾いていて、足場は安定しているようには見えない。
「あいつ、階段のほうに向かってる。はやく!」
いずみちゃんはかがんで、どうにか彼らの視界に入らないようつとめながら、僕を見ていた。
縁に片足をかけ、下を見た。高い。僕の身長分はありそうな茂みが横たえていて、落ちてもきっと、死なない。でも、とても痛いに違いないと思った。こんな高さ、いつもなら大したことないって思う。今は、怖かった。この高さを、僕はとびこえなければいけない。僕は冒険にあこがれていた。それは遠い遠いあこがれだった。きっと、伴う痛みや苦しみを全然考えてない、独りよがりなあこがれだったんだ。
「僕は、おくびょうものだ」
「違う」
「違わないよ、今だって怖くてしかたない。僕はダメだ、とべない。いつだってビビって、逃げてた。今までも、これからも」
「過去のかなたのことなんて、どうでもいい。今まで何をしたかじゃなくて、これから何をするかじゃないの? 今この一瞬のあんたはおくびょうものかもしれない。でも、一秒あとのかなたは、おくびょうものじゃない。それを決めるのは、次に何をするかっていう選択だよ!」
それから何が起こったのかは、いまいち覚えていない。とんだ僕を抱きとめてすごく大きな音がして、いよいよ不審に思ってベランダから顔をのぞかせた家主に怒られて、当然追っていた彼らにもバレて、失礼を承知で庭から勝手に抜けでてとなりの家に侵入したら、僕たち同じくらいの大きさの犬がいて、二人して息を潜めて忍んだけれど結局ほえられて、走って逃げた。
黄色と白色の混ざったような、きれいな空だった。高らかに鳴る五時の鐘は、僕ら小学生の一日の終わりを告げていた。これはルールだ。小学生は五時になったら、遊びをやめて家に帰らなければならない。
どこかの駐車場の、日陰になった石段の上に腰をおろして、僕らは一息ついた。
「死ぬかと思った……」
「私のおかげで助かったね」
「違うよ、いずみちゃんについて行って死ぬかと思ったんだ」
「楽しかったでしょ」
いずみちゃんは、にかりと笑った。楽しい、かったのだろうか。心身ともに疲れはてて、もう足が動く気はしなかった。
「でも……、楽しかった」
すごい冒険だった。怖くて、痛くて、めちゃくちゃ疲れたけど、不思議な充足感があった。彼女のスカートが手に触れて、僕はゆっくりと目をやる。
「ねえ、スカート」
「あっ」
驚きの声をあげて、いずみちゃんは自身の姿を見た。クリーム色のスカートはところどころに黒いしみのようなものがついていて、遠目で見てもわかるくらい汚れている。しばらく手でこすって汚れを落とそうとしていたが、逆にしみをのばしてしまうことに気付いてやめたようだった。
「かわいかったのにね」
「かわいかった?」
「うん、とても似合ってた」
いつもは着ないスカートだから、なんだか新鮮だった。少し恥ずかしそうないずみちゃんの笑みも、いつもは見せないもので、変わったような変わらないような彼女が、とにかく好きだと思った。
「私ね、こうやって普段は絶対に通らないような道とか、今まで見たことのない景色とか、大好き」
「冒険って、楽しい……ね。僕もいつか、世界を救う旅とかに出てみたいなあ」
「いいね、それ。じゃあ私がリーダーやる」
「ダメ、僕がやる」
「今日だって、私が助けてあげたよ」
僕は返す言葉がみつからなかった。いずみちゃんの言葉がなかったら、たしかに僕はとべなかった。なんだか悔しいから、がんばって考えた。
「僕はこれから強くなるんだ」
ろくな言葉は思いつかなかった。でもたしかに今、僕は強くなる決意をした。「大切な人を守るために」
「できるの?」
おかしそうにいずみちゃんは僕をみた。
「できるよ。いずみちゃんが言ったんだよ、これから何をするかを決めるのは、僕自身だって」
肩をあずけてきたいずみちゃんを、僕は見られなくて、空を見上げた。
「かなた」
まるでとても大事なことを話すかのように、彼女は僕の耳元でささやいた。いずみちゃんは言葉をとても大事に使う。一言一言、こぼれてしまわないようにわざわざ運んでくれたのだと思った。
「何?」
「世界と大切な人、どっちかしか救えないってなったら、かなたはどっちを選ぶの?」
「……なにそれ」
「選べない? どっちも救うって言う?」
「僕は……、きっと大切な人を選ぶと思う」
「え……?」
いずみちゃんはスカートのすそをぎゅぅってにぎって、くちびるを噛んで僕を見た。
「いずみちゃんは、違うの?」
「私は、世界を救う。この世界が好きだから」
「ふーん」
「私たち、一緒に冒険できないね。きっと……、けんかになっちゃう」
「僕は、いいと思うよ」
笑っているけれど、どこか寂しげに空を仰ぐいずみちゃんを、僕は見ていた。いずみちゃんがこっちを向いて、そのまっすぐできれいな瞳が僕を見ている。
「僕がいずみちゃんと、いずみちゃんの大切な人を守るから。いずみちゃんは世界を救ってよ。僕は独りよがりでいいから、いずみちゃんはみんなのことを想ってあげて」
間があいた。もうすでに五時の鐘の余韻すら終わって、僕らはもう帰らなければいけない。
「ばーか、かっこつけ」
「いつか、本物のかっこいいになるよ」
「早くしてね、待ちきれずに私、先に飛び出しちゃうかも。かなたが来たときにはもう、世界を救っちゃってるかもね」
いずみちゃんがお尻をはたいて、立ち上がった。僕は座ったまま、彼女のスカートをみていた。
「いずみちゃん」
「何?」
「パンツ、会ってすぐからずっと見えてたよ、ずいぶん高さがあったし、いずみちゃん隠そうとしないんだもの」
後ろ姿しか見えないけれど、彼女の真っ赤になった耳が髪の間からよく見えた。
「ばーか、かなたのばーか!」
振り向きもせず走りさるいずみちゃんの、スカートがひるがえる。立ち上がろうと手をついたら、黄色のハンカチが落ちていた。
「いずみちゃん、ハンカチ忘れてるよ!」
声は届かない。まあいっか、って思って、僕はハンカチをポケットにいれた。
守りたいものができた。この感情の正体を、僕はいまだ知らない。一つたしかなことは、スカートの中には神秘とハンカチがつまっているってことだけだ。
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