その人はとてもお喋りで、まるで隙間を怖がるかのように、深夜の住宅街で言葉をこぼし続けた。
二つ年上の彼女の横顔。
自分自身の話を絶え間なくしているように見えて、本当はこちらを窺っているような。
気取るでもなく、媚びるわけでもなく、相手の懐にそっと寄り添って、仲良くなってしまえそうな、明るく振る舞って人に安心感を与える人。
彼女はきっと、二層のバリアを張っていて、気を許した人に一層目のバリアをとって、心の内を何でもかんでも話しているように見せかけて、どこかで強く一線を引いている。
二層目のバリアはたぶん、家族や親友にも見せていない。
お喋りな人。
気遣いな人。
受け入れる人。
愛を疑っている人。
一度目は車。
二度目は電車。
三度目は歩き。
徐々に原始的になっていくぼくらの二人きりの会話の場は、いつも30分足らずで終わる。
あまりにも気を遣うのが上手で、相手にそれを悟らせないほど明るく振る舞えて、だからこそ、多くの人を魅了するのだろう。
だからこそ、心が動かされない。
別に本当の自分を知ってほしいとか、私の表面的なところを見て好きと言ってほしくないとか、そういうことではないように思えた。
みなスマートに、そつなくエスコートをして、アプローチをしてくれて、好きだと言ってくれる。
ただ、体温が感じられないのかもしれなかった。
きっと彼女自身が、体温の乗った生き方をしているから。
人間関係に対して、関わり方について、突き通したい軸がある。
それは大げさに、生き様と言ってしまってもよかった。
だから同じくらい、体温を感じられる人でないと、彼女は嫌なのかもしれなかった。
嫌というか、どうでもよくなってしまうというか。
ほんのりと温かい湯船に浸かっていたのが、いつのまにか冷たく感じてしまうような。
追い焚きボタンを押す気力も湧かなくて、もう出ちゃえばいっか、って。
彼女は諦めを口にしているように見えた。
けれど、本当に諦めて、見限って、どうでもいいと思ってしまったら、人はそのことについて話すのをやめてしまうから、諦めではなかった。
同情がほしいわけでもないし、勇気づけてほしいわけでもない。
実際、固執することも、焦ることもやめたので、諦めと取られても仕方がなかったけれど。
彼女は自分の気持ちを確かなものにするために、言葉をこぼす。
相手はきっと誰でもよくて。
だって自分で解決しなきゃだから。
ぼくは秘密めいた夜に、彼女と歩けることを光栄に思う。
その悩みも、心配りも、二層目のバリアも、人を愛おしそうに、羨望の眼差しで見つめるその暖かな瞳も、すべてが、明け方に浮かぶ、湖に映った日の光みたいに、淡い美しげなものとして見えた。
再びその偶然が来ることを密やかに祈って。
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