年を重ねるごとに友だちは減っていって、ぼくはそれを健全なことだと感じていた。
友だちが減った、というのは相応しい表現ではないのかもしれない。
絶交したわけでもあるまいし、LINEのフレンドリストだって、いつまでたっても消えることはない。
ただ、社会人になって空き時間が限られるようになってからは、自然と会う人を選ぶようになったのだ。
会いたい人にきちんと会うことを、大事にしたいと思うようになった。
一年に一回でも、会いたいと思って会う人を友だちと呼ぶのだとしたら、確かに友だちは年々減っていっていて、そして、ぼくはそれを望ましいと思っている。
取捨選択なんて、偉そうなことは言いたくない。
けれど、大学生だった頃の自分が会ってきたたくさんの人と、期待した面白い展開というのは、思ったほどの物語にはならなくて、時間とお金を無駄にしたなと感じてしまうことは多くあった。
何か面白いことが起こるかもしれない。
その期待に、あまり意味はなかったのだと、今はそう思う。
ただ、新しい出会いや新しい場所に挑戦的に、半ば強引にいくことがすべて無駄だったかと言うと、そうでもない。
少なくとも、おそらく大多数の人々より、朝まで飲み会にいることの無意味さを身に沁みて理解しているし、結果として他の人が体験できないような意味のわからない面白げなことに巻き込まれることもあった。
無駄だということを知るための無駄だったのだとすれば、後悔はない。
後悔なんて、するはずがないのだ。
新しい関係や、新しい環境に辟易としてくる。
これは由々しき事態だった。
ぼくはパワハラ上司、セクハラ親父など、とにかくキモい大人になりたくなくて、未来になりうる数多くのことを恐れているけれど、現状維持保守派おじさんもまた、1,2を争うなりたくない大人の姿なのである。
ただ、ここには相反した二つの気持ちがある。
一つは、新しいことの虚しさ。
面白いことよりも、つまらないことの方が多いことを、身をもって知っている。
より穏やかに言うのだとすれば、まったく新しいモノよりも、自分が良いとわかっているモノの方がハズレを引く確率が低いってこと。
だからレストランで同じ料理と同じドリンクを頼んでしまう。
二つは、面白くありたい。
今のままでいいじゃん、とか、知ってることしかやりたくない、とか、安パイを選ぶとか。
新しいことを恐れるあまりに、いろんなものを否定してしまうつまらない大人になってしまうのではないかと、震えているのである。
この相反した気持ちに決着をつけ、素晴らしき妥協点を見つけるために、ぼくは一つの結論を導き出した。
新しい人との出会いや、まったく新しいことへの挑戦は、空虚になることがある。
大学生だったころ、好奇心に任せて出会った数多くの人々とは、今はまったく連絡を取っていないし、おそらく一生会うこともない。
無意味ではなかったけれど、無駄ではあった。
だからぼくは、もっと仲を深めたい人と、新しいことに関わっていこうと決めたのだった。
きちんとお互いの関係を大切に思いながら仲を深めていきたいと思うような人と一緒に時間を過ごす。
そして生きてく中で、どうしても関わっていかなければいけない新しい人に対しては、仲を深めたい人とともに関わる。
自分が気乗りしないで、一人きりで新しいことをしなければいけないのなら、しっかりと断る。
気乗りせずに一人で行った場所なんて、どうにもならないに決まっているのだから。
でも逆に、大切な人と行く新しいところなんて、最高に決まっているのだから。
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