寄り添える言葉を探して暮れ

考え過ぎてしまうことが何の腹の足しにもならないことは、考え過ぎてしまう人たちにとっては周知の事実だった。

 

多分、考え過ぎてしまうような人が、鬱になるのだろう。

文豪が考え過ぎた挙句の果てに死を選んだように。

 

人を貶すのは簡単で、褒めるのはむつかしい。

仲が良くなければないほど、褒める流れは作りやすく、容易いけれど、逆に仲が良いと褒めるというのは歪に見えることがある。

だから貶された(というかイジられた)場合は、仲が良いことの裏返しであると考え、言葉を素直に受け取らない努力が必要なのだろうけれど、やはりどうしても、「え、そんなふうに思ってたの?」とか、「今のはどういった意味だろう?」と、無意味に、無闇に考え込んでしまうのだ。

 

そんなモヤモヤとした気持ちになったとき、ぼくはいつも、自分の行いを振り返るようにしている。

もしかしたらぼくも誰かを同じ気持ちにさせてしまっているのかもしれない。って。

自分がやってあげたと思うことはいつまでも覚えているけれど、誰かにやってもらったことって忘れがちだから、意識して思い出すように努めているのだけれど、他人からの施しの多分半分以上は覚えていないのだろう。

だから、モヤモヤした気持ちになったとき、自分も相手にそうさせていないか、というのを考える。考え込む。考えすぎる。

 

これもまた、きっと正解ではない。

 

考えすぎだよ。

人なんて、そんなきちんとした意味を持って言葉を発していないのが大半なのだから。

と言われると、確かにその通りなのだろうなぁと思う。

でも。

もし相手が、ぼくみたいにぐじゃぐじゃと考え過ぎている人だったら?

その人にとっては、ぼくのこの考えすぎは考えすぎではないのかもしれない。

そう思うと、結局考え過ぎることをやめるのがまたむつかしい。

 

そして、結論として、自分の中で大事にしたいものが浮かび上がってくる。

強く強く。

その強い思いには大きな弊害があって、自分が大事にしたいことを為さない人を見ると、とてもイラっとするのだ。

イラッとすることにもまたイラッとして、自分が完璧じゃないくせに他人に求めるなよ、と自身を叱咤する。

 

自分の中で大事にしたいもの。

親しいからこそ、その人の好きなところ、素敵だと思うところを、本人に直接伝えたい。

その文脈は難しくて、ともすれば白々しく煽っているだけに聞こえてしまうから、細心の注意を払いながら。

 

偽物とよく言われるぼくの言葉が、きちんと本物になることを強く願って。

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