三人姉妹の末っ子の友だちとタイ料理を食べにいったとき、レストランの中で彼女はこう言った。
「世界って、本来は夫婦が二人子どもを産めばいいわけじゃん? つまり、3番目の子どもっていうのは、要らないんだよ。世界の搾りかすみたいなもの」
水で薄めたみたいな味のするハウスワインをカラフェからグラスに注ぐ。
だから私たちは、要らない子で、生きてる意味なんてないの。
と。
まるで今にでも死にそうな人の物言いに聞こえたけれど、どうやら違うらしいということは、その声音でよくわかった。
明るくて、楽しそうで、美味しそうに生春巻きを口へと運んでいる。
「だからさ、何やってもいいんだよ。めちゃめちゃ自由なの。私たちはどうせ、世界から爪弾きにされた3番目の子どもたちなのだから。好き勝手に、生きればいい」
彼女は嬉しそうだった。
ぼくはとても腑に落ちて、声をあげて笑って、その意見に感心した。
いつからそういう風に考えるようになったの?
と訊くと彼女は、
「今テキトーに」
と言って、ぼくは再度笑ってしまう。
その主語の大きさが、たまらなく好きだと思った。
兄弟の搾りかすでもなく、親から爪弾きにされたわけでもなく。
誰かが要らないなぁって言ったのではなくて、世界という大きな、大きすぎる枠組みの中で、そこから外れてしまっているのだ、と。
なんだかそれって、かっこいい。
世界から弾かれてしまっているのだから、もう仕方がないと思えてしまうのだ。
むしろ、世界の外側の存在ってことは、誰よりも強そうである。
ぼくらの存在は誰かにとっての重荷なのではなく、世界が抱えきれないからこそ、自由に生きていいのだとすれば、ままならずに停滞してしまっている心は、幾分楽になる気がした。
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