苦手な人はあまりいないと自分では思っていたのだけれど、過去振り返ると、なんだかなぁ、少し苦手だなと思うのは、愚痴を言う人が多かった。
愚痴を言うことは悪いことではない。
あれが嫌だ、これが嫌だと、あの人のここが嫌い、こういうところが苦手だ、と言うことは自らの心を平穏に保つためにも必要だし、言ってはいけないことではないはずだ。
げんに今もぼくは、苦手な人について話しているわけだし。
あと、もっとも大きなポイントは、言いたいだけ、ってこと。
愚痴なんて、文句なんて、本気でそう思って変えたい、変えてほしいと思っているのなら、ぐちぐちと言わずに当の本人か、もしくは誰にも言わずに自分で変える努力をする。
でもそうせず、何の権力も力も持っていない他人にその愚痴を言っているのは、言うことがストレス発散になっていて、ただ言ってみたいだけだから。
こう思うようになってから、こう他人の愚痴を捉えるようになってから、自分の中でのストレスが減った。
昔は他人の愚痴をきくたびに、
「じゃあお前は何をやってるの?」
「もっとこうすればいいんじゃないの?」
とか思ってしまって、時には口を滑らせてしまったことがあったけれど、良い結果を生んだことは一度もなかった。
一度たりとて。
ぼくだって愚痴を言うのに、自分のことを棚に上げて。
愚痴を言っている人は、言いたいだけ。それがストレス発散になっている。
と捉えるようになってから、平穏に話をきくことができるようになったのだけれど、それでも、人と場合によっては、あまり気持ちのいいものではなくて、何だかこの人の愚痴を言うところは苦手だなぁ、とか思ってしまっている。
でも多分、ぼくもたくさん言ってしまっている。
言わないようにしているつもりではあるのだけれど、言っているつもりはないけれど、もしかしたら仲の良い友だちは、ぼくの愚痴を口を挟まずに優しく聞いてくれている気がする。
そう。
ここで重要になってくるのは(少なくともぼくにとって重要だと思うのは)、仲の良い人に愚痴を言う、というところである。
愚痴を言う人は、慎重に選ぶべきだ、とぼくは思っている。
複数人のいるところで言うべきではないし、あまり親しくない人にはするべきではないし、立ち話や喫煙所の少ない時間で話すものでもないと思っている。
だから、四人くらいで飲んでる時、大っぴらに愚痴をぶちまけている人を見ると、あー、ちょっと苦手だなぁと感じてしまうのだ。
ただ、それは愚痴を言う人が苦手なのではない。
仲のそこそこ良いと思っている友人に、二人きりでゆっくりと話をしているとき、愚痴をこぼされると、少し嬉しい。
信頼されているように感じるから。
仲が良い、と愚痴を言っている相手からも思われているようで、嬉しくなる。
大っぴらに愚痴を言う人が苦手なのは、同席している周りの人のことを考えていないとぼくの目に映るからかもしれない。
その愚痴を聞かされるとき、誰だっていい気はあまりしない。
二人きりのときに話されるのは、この人なら聞いてくれると信頼してくれているように感じるけれど、大人数で話しているときは、何の考えもなしに自分の話を聞いてくれる人にぶちまけている、という風に見えて、少し辟易としてしまうのだ。
だから、誰彼構わずどんな時にも愚痴を言うのではなく、いつもは言わないけれど二人の時にはこっそりと愚痴をこぼしてくれる、そんな人がすてきだなと思う。
コメントを残す