書くしかないことはわかっているのだけれど、指が動かない。
昔は何でも書くことができた。
そこに恐れはなかった。
迷いがなかった。
自分を信じていたし、自分の言葉がきちんと伝わることを疑わなかった。
でも、日々を過ごす中で、いろんな人といろんな話をするにつれて、自分の正しさを主張することが馬鹿らしくなってしまったのだと思う。
他人には何も伝わらないのだという無力感と、自分が知っている”正解”なんてものはなかったのだという絶望が、ありとあらゆる”行動する気力”を奪う。
だからぼくは、書こうとしている。
伝えようとしている。
身体を無理矢理にでも動かして、行動しようとしていた。
ポジティブに捉えなそうとするのならば、ぼくの苛まれている無力感と絶望は、ぼくの行動に対して最大の価値を生んでくれているのだと、そう思っている。
考えすぎるぼくに対して、多くの人は
「考えるな」
とアドバイスをしてくれて、その考えにはとっても賛成できるのだけれど、その助言を踏まえた上で、理解した上で、ぼくは考え続けようと思っている。
考え続けることを考えている。
考え続けていると、自分が何をやりたいのかもわからなくなってくる。
何のために書いているのかもわからず、一人脳みその中にあるあっさい池でじゃぶじゃぶと溺れそうになるような。
すると能天気なぼくというのが脳内に現れて、
「ようすけ、溺れるな。お前は何でもいいから面白がることができればいいんだろ。だから自分が面白いと思う文章を書け。悩みとか、悲しみとか、弱音とか意気込みとか、そんなものはいらないんだよ。いいから面白いことをしろ」
と、とても能天気とは思えない、ごもっともなことを言ってくる。
能天気じゃない方の脳内のぼくは、
「面白い文章って何だよ。誰にとってどんな面白いものを書けばいいんだ」
ときくので、能天気なぼくは眉をひそめて、
「たしかに。面白さって人それぞれだよな」
と言ってしまうものだから、能天気と、そうじゃない方のぼくの二人揃って、もう一度脳みその中にある浅ーい池にじゃぶじゃぶじゃぶじゃぶ。
自分のネガティブな感情を描きすぎたら怒られた。
ポジティブに振り切ったら、思ってもないこと書くなって、また怒られた。
読んだ人が、ちょっと上向きになれるような、そんな文章が書きたい。
そう思い続けて、書き続けて。
悩んで、立ち止まって、また歩き出す。
書くしかないんだろうなぁ。
書く書くしかじか、ないんだろうなぁ。
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