秋色の服をまとって、歩道で一人スキップしてみる。
新しいことが見当たらない。
10代だったころは、歳を重ねるごとに先輩や後輩などの自分の立場が変わって、どきどきして、嫌気がさして、もうたまらなかった。
コーヒーの中の、大人ぶって少しだけしか入れない牛乳みたいに、ざわつきはほんの一瞬のスパイスだった。
けれどいつからか、甘ったるいカフェオレみたいになる。
ざわつきが大きくなって、コーヒーのもとの味がわからなくなっていくような、そんな感覚。
冬にはもう、飽き飽きしていた。
映画や本などの創作物では解消されないほどの、激しい乞い焦がれ。
最後にどきどきしたのは、いつからだろうか。
そもそも大人になって、どきどきを求めることが間違っているのかもしれない。
今一番思い出されるどきどきは、なんだったか。
思い返そうとすると、何も出てこない。
もしかしたら何ひとつないのかもしれなかった。
とめどない思考のループ。
冬から抜け出せない。
だからそれを断ち切るように、春も夏も飛び越えて、秋の服を着てみた。
まだ流石に寒かったけれど、その冷たさがいっそ心地よいと思ってしまうほどには、自分の心が停滞して沈んでいっていた。
どんな気持ちになっていたとしても、その気持ちを自分で持ち直すことができる魔法の呪文が、今のぼくにとっては秋色の服だった。
沈んだ時は、気の置けない友人に会うのがいい。
鬱屈とした冬を忘れさせてくれるいい薬。
だけれど、薬には効果切れがあって、時間が経てばまた、角砂糖よりももう少しだけ甘い自己嫌悪の味。
人に会うのはとっても好きだし、心が元気になるからすごく大切だと自分では思っている。
ただ、自分の気持ちの行先をいつも人に委ねてしまっているのは、少し不健全だと思った。
どきどきしたい。
その気持ちを自分の中で解消する。
それはハードルが高いかもしれない。
わくわくくらいなら。
いや、うきうき。
それくらいなら。
と思った時に、あ、だから服って素敵なんだな、と腑に落ちた。
自分が何者でいたいか、どんな気持ちになりたいか、どの季節に染まりたいか。
それらを体現できるのが、身に纏う服であり、アクセサリーであり、化粧であり、髪型なんだ。
リモートワークで誰とも会わずに1日を終える。
そんな日々を繰り返す中、ぼくは自分の心を弾ませたくて、夜に一人、散歩に出た。
秋色の服をまとって、歩道で一人スキップしてみる。
さすがにスキップは恥ずかしいから、もちろん心の中で。
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