家家滅相もございません

親や兄姉を含む我が家の仲がいいかは、客観的には判断しづらい。

 

ぼくが中学生に上がるころには、家族みんなで旅行に行くことはなくなっていて、母と二人で出かけることが多かった。

母に連れられて一緒に山登りに行ったり、温泉に行ったりしたのを覚えている。

兄や姉は大学生になると家に帰ってこなくなったし、兄弟誰かの留学の時期がちょうど被らず、ほとんど会うことのない生活が続いた。

社会人になった兄はそのまま静岡に転勤となる。

 

幼少期には兄と姉とゲームをよくしてもらっていたけれど、ケンカすることも多くて、決して仲睦まじい兄弟とは程遠かった。

ただ、ぼくが高校留学から帰ってきた時期くらいから、ようやくまともな会話らしいことができるようになったように思う。

ぼくはずっと、兄と姉は正しい答えを持っているのだと思っていた。

相談することはあれど、彼らから相談されることは一度たりとてなかった。

 

これはいい、これはよくない、という若者同士の倫理観みたいなものは、すべて兄と姉を参考にしていた。

2年後、4年後にぼくが通る道をすでに歩いている彼らの意見は貴重でありがたかったけれど、その偏りも徐々に気になるようになっていった頃、ようやくぼくは彼らと対等に会話ができるようになったのだと思った。

 

兄は能天気である。

もちろん軸はしっかりあって、大切なものへの優先順位をつけるのもとても上手い。

要領が良くて、手先と口先が器用なので、たいていのことは何でもこなせてしまう。

ただ、姉やぼくと比べて、若干楽観的な気がしてならない。

きちんと稼ぎ、きちんと家庭を持ち、支え、生きている兄に対して、その真反対みたいなぼくがこんなことを言うのは絶対に間違っているには違いないのだけれど。

兄の楽観視は、ぼくら妹弟にはないよいものなのだ。

そしてぼくは悲観的に自由を謳歌して楽しんでいる、と一応付け加えておくとしよう。

 

姉は偏愛的である。

彼女を痛めつけたいと思う人がいるなら簡単だ。

食料とネット環境のある贅沢な造りの部屋に二週間閉じ込めればいい。

そこが天国だと言う人もいるだろうが、きっと姉は二週間も誰にも会えないことに耐えられはしない。

彼女にとって、気の置けない友人の存在は何よりも大きいのだ。

大切で、愛おしくて、かけがえのない、唯一無二の、誇りに思える、素晴らしい友人たち。

彼女は心から、そう思っている。

姉の大きすぎる愛は、うまく役割を変えて気の置けない友人へと分散されるからこそ、彼女は旦那とうまくやれているのだと思う。

だから友人と満足に会えなくなった姉が、どうなってしまうかは想像するだに恐ろしい。

 

兄姉に対して好き勝手こんなことを言っているぼくだけれど、彼らのことは大好きだと心から言うことができる。

ぼくは性格が悪いのかわからないけれど、友人たちの欠点がすぐに目に付く。

ここうざいな〜と思いながら、もちろんぼくから誘って仲良くはしているのだけれど、誰にでも嫌なところというか、好きじゃないところはある。

けれど、兄姉にはそれがない。

 

きっとそれは、ぼくらが親子でもなければ友人でもなく、きょうだいだからなのだと思う。

ぼくらの立ち位置は友人同士よりは強固で、親子ほど近すぎはしない。

連絡を一切とらなかったからといって一生会わなくなることはないし、結婚をするときにわざわざ伺いを立てる必要性も微塵もない。

きょうだいとは、この世界でもっとも絶妙な関係なのだ。

それを踏まえた上で、ぼくは彼らが大好きだと胸を張って言う。

彼らは聡明で、思慮深く、人のことを想い、自らの意志で動くことのできる、とても素敵で面白い人たち。

たまに近くて、たまに遠い、そんな場所から彼らの幸せを願ってやまない。

ぼくが願わずとも、彼らの幸せは揺るぎないに違いないのだけれどね。

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