「有頂天家族読むとさ、京都行きたくなる」
「わかる。ていうか、森見登美彦作品すべてに言えるよね」
土井(どい)くんは今日もセクシー。
今日は華の金曜日。
仕事がなかなか片付かない私を見かねて、彼からご飯に誘ってくれた。
先行ってて、っていつも言ってるのに私と同じタイミングで退勤して、しれっとエレベーターに乗る、そんな彼のどこか飄々(ひょうひょう)としたところが嫌いじゃなかった。
今日も私たちはワインをあける。
イタリアのピノ・グリージョ、疲れてるから本日はしっかりめ。
ていうかグリムジョージャガージャックみたいでかっこいいな。
あ、レバーパテください。
「もう私たち30代だよぉー、土井くんー」
「ゆんさんまだでしょ、誕生日」
「2ヶ月後にはもう30歳だよ変わらないよ……」
「ハタチの時ほどの衝撃はないと思うけどね」
「えー、ハタチってそんな劇的だったっけ?」
「そりゃあもう。僕なんて小学校の友達と会うの久しぶりだったから、みんなの顔見てびっくりしたよ」
「ほーん」
「ゆんさんはお母さんの着物着たんだっけ?」
「そ、おばあちゃんからお母さんへ、そして私に受け継がれた振袖。クリーニングとか、意外と高かったし、デザインも今っぽくはないんだけどさぁ、……なんか、脈々とっていう感じが、よかったんだよね」
「素敵だね。どう、20歳から30歳、この10年間はゆんさんにとって予想外だった? それとも概ね考えていた通り?」
私たちはいつも、薄暗がりのお店で飲む。
二人とも、明るくてうるさくて、騒がしいところで飲むのは、この人とじゃないって分かってるみたいに。
4年前から、ずっとそうだった。
「土井くんは? 何か変わった? 20歳の頃の自分と比べて、さ」
彼の骨張った、大きな手。
腕の内側の太い血管。
鎖骨から首筋にかけて、喉仏のラインがとても美しい。
「んー。たくさん変わったよ。あの時の僕は、正しさを信じ切っていた。言葉を乱用していたし、どこか生き急いでいたように思う。今は、……少しは落ち着いたのかな」
「今も土井くんには芯があるように見えるけどね」
土井くんはくっくっく、と笑う。
「ありがとう。ゆんさんは?」
「私は……、変わったような、変わらないような。20歳の時にも思ったけど、私が10代のときに想像していた20歳とか、30歳とかって、もっともっと大人だと思ってた。人付き合いがうまくて、感情のコントロールができて、仕事もきちんとこなせる、そんな大人になれるんだって思ってた。でも実際は、うまくいかないことばっかり。30歳目前で、結婚相手も見つかってないしね」
「結婚かぁ。ゆんさんは結婚したいの?」
「うーん。そう訊かれると、たしかに分からないなぁ。何はともあれ、パートナーはほしいけどね」
「パートナー」
いつものように、お酒は進む。
私と土井くんは、ただの職場の同僚。
仕事終わりにはよく会って飲むけれど、逆に言えば仕事以外の日に会うことはない。
「土井くんは典型的な独身貴族って感じがするね。今の自由な生活が楽しそう」
「結婚まで考えていた子にフラれたからね……」
「あー、四年前。だからうちの会社にきたんだっけ」
「いやちょっと待って、それが理由みたいに言うのはやめてよゆんさん。タイミングが被っただけ」
ふっふっふ、と私は笑った。
変な笑い声、って初めて土井くんと飲みに行った時に言われたその言葉の後、くっくっくと笑う彼の笑い声が可笑しくて、二人して変な風に笑い続けたのを、今でも鮮明に覚えている。
「私さ、土井くんと会うのが20歳の時じゃなくてよかった」
「僕はハタチのゆんさんも見てみたかったけどなぁ」
「若くて、めちゃくちゃだったよ、私。今も成長したのかはわからないけどさぁ、でも少なくとも、昔よりは客観的に自分を見られるようになったと思うんだよね。大人に、うん、……大人になったんだ私。ばばあになっちゃった、とも言い換えられるかもしれないけど」
「ゆんさん」
存外に強い口調で私の名前を呼ぶ土井くんに、思わずどきっとする。
少しだけ、少しだけ。
一回、彼は深呼吸をする。
そしてワインを飲む。
その後、レバーパテを食べてから、彼はお水を飲んだ。
「土井くん……?」
眉間に皺を寄せて、腕を組んで、口をもぐもぐさせてる土井くん可愛い。
「僕は言葉を大切に使いたい。そして……、僕の正しさを押し付けたいわけじゃないから、強要するつもりはないけれど。……ゆんさんは、ばばあじゃないから。それだけ」
お手洗い行ってくる、と立ち上がった土井くんを,私は何も言えずに見送る。
ゆんさんは、ばばあじゃないから。
ゆんさんは、ばばあじゃないから。
ふっふっふ。
あー、20歳の時の土井くんにも会いたかったなぁ、と私はひとりごちた。
きっと彼のまっすぐで顕(あらわ)になった正しさが優しい言葉となって、私の胸を突き刺していたに違いない。
きっと可愛いんだろうなぁ、とばば……、大人の女性みたいなことを思いながら、私は止まらないニヤニヤを持て余していた。
ゆんさんは、ばばあじゃないから。
ただその一言に、私はなぜだか救われていた。
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